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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  波乱の幕開け6

「アスカ、その手はどうしたんだ?」

 ヘンリーは、パソコンのキーボードを叩く飛鳥の右手に巻かれた包帯を見咎めて、顔をしかめた。当の本人は特に気にする様子もなく大きな明るい瞳で振り返ると、「化学クラスの実験で、フラスコが爆発して火傷したんだ。大した怪我じゃないよ。ほら」と、手を握ったり開いたりしてみせる。

「ウィリアムのお陰で助かったよ」


 ウィリアム・マーカスがとっさにローブを翻して庇ってくれたので、この程度の怪我で済んだ。彼は一学年下で、理系科目とスポーツ選択が被っていて、最近良く話すようになったのだ、と飛鳥は嬉しそうに説明した。


「彼も元エリオット生なんだろ? 知ってる?」

「優秀な子だよ」

 ヘンリーは軽く頷いた。

「優秀といえば……。Aレベル試験、僕は来週からだ。きみはもう終わっているんだったね。僕も頑張らなきゃ」

「きみの邪魔しないように、僕はもう黙った方がよさそうだね」

 二人は顔を見合わせて微笑むと、互いの机に向き直る。


 だが机についたまま窓からぼんやりと中庭を眺めていたヘンリーは、暫くすると立ち上がり部屋を出ていった。





 Aレベル試験が近いせいか、いつもなら誰だかに占拠されている談話室も、今は人影もない。

 チェス盤を挟んで対座するソファーに腰かけ、ヘンリーはウィリアムに問い質した。


「何回目だ?」

「厩舎を含めると四回目です」

「何かおかしいと思わない? たんに僕への嫌がらせとは思えなくなってきた」

 ヘンリーはチェスの駒を動かしながら、眉をひそめる。

「それに、アスカも変だ。厩舎の時にしろ、度重なる怪我にしろ、誰にやられたって絶対に言わないし、訊ねない。相手を恨んでいる様子もない。スゥイフトとすれ違った時だって顔も覚えていないようだった」

「トヅキ先輩は、自分が狙われている自覚があるようですね。自分の傍にいない方がいい、と言われました」


 ウィリアムは、折りたたんだ紙片をすっとヘンリーに差し出し、黒の駒を動かした。


「加害者リストです」

「階級は、ばらばらだな」

 ヘンリーは、紙片にちらりと目をやりポケットにしまう。

「十一月のガイ・フォークスから、二回目は年明け。間が空いているな」

「一回目は警告でしょう。先輩は、何か脅迫されているのではないでしょうか?」




「教えてやろうか? マイ・ロード」

 

 ちらりと戸口に視線だけ向け声の主を確認すると、ヘンリーは眉をひそめて冷たく「結構だよ」、と顔を逸らした。


「相変わらず、俺の忠誠は信じて貰えないんだな」

「高くつくって知っているからね」

「そんなもの!」


 ロレンツォ・ルベリーニは大げさなジェスチャーで嘆いてみせ、「それならアスカは俺が守る」、と態度を一変させ真剣な顔でヘンリーを鋭く見据えた。


 ヘンリーは伏せていた睫毛をゆっくりと上げ、ロレンツォを睨めつける。

「きみの手は借りない」

 冷たく睨みあった後、ヘンリーは話を打ち切るために立ち上がった。


「あんたの手には余る。アスカは俺がもらう」

「結構。お手並み拝見しようじゃないか。できるものならね」



 ヘンリーは、もうロレンツォと視線を合わすこともなくその脇を通り過ぎ、談話室を後にした。ウィリアムもその後に続く。通り過ぎ様、ロレンツォに軽く会釈をして。



 「さすがだな。ルベリーニの情報網は」

 自室に向かう階段を上がりながら、ヘンリーは誰にというでもなく呟いた。そして、一歩後ろから続くウィリアムを振り返った。


「もう一度資料を洗い直せ」


 何かを見落としている。きっと、()()だけではない。

 飛鳥には、ルベリーニすら欲しがる、もっと解りやすい何かがあるはずだ。



 日々昇降する階段も、艶やかな飴色の廊下も、この日は何故か薄暗く感じられた。行く宛ての見えない漠然とした不安と不穏な空気を肌に感じ、ヘンリーは珍しくギリッと奥歯を噛み締め、ただ前のみを見据えていた。そしてウィリアムは、そんな彼から僅かに距離を取って、視線を伏したまま静かに音もなく従っていた。まるで彼の影ででもあるかのように。


 



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