波乱の幕開け6
「アスカ、その手はどうしたんだ?」
ヘンリーは、パソコンのキーボードを叩く飛鳥の右手に巻かれた包帯を見咎めて、顔をしかめた。当の本人は特に気にする様子もなく大きな明るい瞳で振り返ると、「化学クラスの実験で、フラスコが爆発して火傷したんだ。大した怪我じゃないよ。ほら」と、手を握ったり開いたりしてみせる。
「ウィリアムのお陰で助かったよ」
ウィリアム・マーカスがとっさにローブを翻して庇ってくれたので、この程度の怪我で済んだ。彼は一学年下で、理系科目とスポーツ選択が被っていて、最近良く話すようになったのだ、と飛鳥は嬉しそうに説明した。
「彼も元エリオット生なんだろ? 知ってる?」
「優秀な子だよ」
ヘンリーは軽く頷いた。
「優秀といえば……。Aレベル試験、僕は来週からだ。きみはもう終わっているんだったね。僕も頑張らなきゃ」
「きみの邪魔しないように、僕はもう黙った方がよさそうだね」
二人は顔を見合わせて微笑むと、互いの机に向き直る。
だが机についたまま窓からぼんやりと中庭を眺めていたヘンリーは、暫くすると立ち上がり部屋を出ていった。
Aレベル試験が近いせいか、いつもなら誰だかに占拠されている談話室も、今は人影もない。
チェス盤を挟んで対座するソファーに腰かけ、ヘンリーはウィリアムに問い質した。
「何回目だ?」
「厩舎を含めると四回目です」
「何かおかしいと思わない? たんに僕への嫌がらせとは思えなくなってきた」
ヘンリーはチェスの駒を動かしながら、眉をひそめる。
「それに、アスカも変だ。厩舎の時にしろ、度重なる怪我にしろ、誰にやられたって絶対に言わないし、訊ねない。相手を恨んでいる様子もない。スゥイフトとすれ違った時だって顔も覚えていないようだった」
「トヅキ先輩は、自分が狙われている自覚があるようですね。自分の傍にいない方がいい、と言われました」
ウィリアムは、折りたたんだ紙片をすっとヘンリーに差し出し、黒の駒を動かした。
「加害者リストです」
「階級は、ばらばらだな」
ヘンリーは、紙片にちらりと目をやりポケットにしまう。
「十一月のガイ・フォークスから、二回目は年明け。間が空いているな」
「一回目は警告でしょう。先輩は、何か脅迫されているのではないでしょうか?」
「教えてやろうか? マイ・ロード」
ちらりと戸口に視線だけ向け声の主を確認すると、ヘンリーは眉をひそめて冷たく「結構だよ」、と顔を逸らした。
「相変わらず、俺の忠誠は信じて貰えないんだな」
「高くつくって知っているからね」
「そんなもの!」
ロレンツォ・ルベリーニは大げさなジェスチャーで嘆いてみせ、「それならアスカは俺が守る」、と態度を一変させ真剣な顔でヘンリーを鋭く見据えた。
ヘンリーは伏せていた睫毛をゆっくりと上げ、ロレンツォを睨めつける。
「きみの手は借りない」
冷たく睨みあった後、ヘンリーは話を打ち切るために立ち上がった。
「あんたの手には余る。アスカは俺がもらう」
「結構。お手並み拝見しようじゃないか。できるものならね」
ヘンリーは、もうロレンツォと視線を合わすこともなくその脇を通り過ぎ、談話室を後にした。ウィリアムもその後に続く。通り過ぎ様、ロレンツォに軽く会釈をして。
「さすがだな。ルベリーニの情報網は」
自室に向かう階段を上がりながら、ヘンリーは誰にというでもなく呟いた。そして、一歩後ろから続くウィリアムを振り返った。
「もう一度資料を洗い直せ」
何かを見落としている。きっと、あれだけではない。
飛鳥には、ルベリーニすら欲しがる、もっと解りやすい何かがあるはずだ。
日々昇降する階段も、艶やかな飴色の廊下も、この日は何故か薄暗く感じられた。行く宛ての見えない漠然とした不安と不穏な空気を肌に感じ、ヘンリーは珍しくギリッと奥歯を噛み締め、ただ前のみを見据えていた。そしてウィリアムは、そんな彼から僅かに距離を取って、視線を伏したまま静かに音もなく従っていた。まるで彼の影ででもあるかのように。




