波乱の幕開け4
クリスマス休暇を終え寮の自室へ戻ってきたヘンリーは、まだ日も暮れていないのに昏々と眠っている杜月飛鳥をみて、苦笑した。
ベッドに腰かけ、その長い指でさらさらと飛鳥の黒髪を梳きながら、声を掛ける。
「アスカ、起きろ。話があるんだ」
「ジェームズ、もう少し寝かせて。もういいだろ?」
「何がいいんだ?」
頭上で響く苛立たし気な声に、飛鳥は寝ぼけ眼を擦って薄目を開ける。
「お帰り、ヘンリー。新年おめでとう」
だるそうに身を起こし、そのまま壁にもたれて眩しそうに目を細めている。
「顔色が悪いな」
ヘンリーの言葉に、飛鳥は糸のたるんだ操り人形のようにカクンと頷いて、血の気を取り戻すためにか両手でごしごしと顔を擦った。
「三日間、徹夜だったんだ」
「デヴィッドとゲームでもしていた?」
小学校の頃、彼の家へ行く度に、徹夜で付き合わされていた事を思い出し、ヘンリーは軽く首を傾げた。だが飛鳥は頭をおもむろに振る。
「デヴィッドの家には挨拶だけして、後は友達のフラットに泊めて貰っていたんだ」
「友達? イギリス人の?」
「ロンドンのね。ジェームズは、うちの取引先の日本支社に出向しているエンジニアなんだけどね。クリスマス休暇で戻っていてね、僕が日本を出る前からこっちで会おうって、約束していたんだ。だけど、彼の担当しているスクリプト開発が遅れてね、本社はもう休暇中だったし、スカイプで日本支社と繋いで正月明けまで掛かりっきりで、僕も通訳とか手伝っていて……。おまけに最後の最後でバグが出てさ、」
すっかり眠気も覚めた様子で、飛鳥は瞳を輝かせて話し込み始めた。
「それで、他人の手伝いでずっと寝ていなかったのか?」
ヘンリーが呆れたように確認する。
「楽しすぎて眠ってなんていられなかった。本当にすごかったよ。世界に名だたるインド人エンジニアの実力を見せつけられた、完璧なバグフィックスだった。ジェームズはインド育ちで、イギリス人とのハーフなんだ。……それに、家族で過ごすクリスマスにラザフォード家にお邪魔するのは気がひけていたから、助かったよ」
飛鳥はヘンリーの不機嫌な顔付きから、あっ、と気がついたように言い足して、幾分申し訳なさそうな、けれど、さっぱりとした顔で微笑んだ。ヘンリーは無表情のまま立ち上がった。
「まだ門限まで時間がある。外に食事に行こう。どうせまた、ろくに食事を取っていないんだろう?」
飛鳥は上目使いにヘンリーを見上げる。
「まだ眠いなんて言うなよ。ちゃんと食事を済ませたら、シューニヤからの預かりものを渡してあげるよ」
「シューニヤから僕に? 見せて!」
飛鳥はベッドから飛び降りると急いでくしゃくしゃの衣服を整え始めた。
「食事が先だよ」
ヘンリーはしたり顔で微笑んでいる。
今日のヘンリーは意地悪だ。いつもはどうでもいいふうに、無表情で機械的に口に運ぶだけなのに、わざとゆっくりと楽しそうに食事している。
時間もまだ早いせいか、学校から少し離れた場所にある小さなパブは、客もまばらで静かに食事することができた。
飛鳥は眼前に置かれた、マッシュルームとチキンのパイを切り分けながら、ヘンリーを恨みがましく一瞥する。ナイフを入れた箇所からハーブの香りが広がり食欲を刺激する。別添えのグレイビーソースをたっぷりと絡める。諦めて、一口、口にする。
身体に活力が戻ってくる。
そういえば、こんなまともな食事、久しぶりだ。
ほっと、ため息を吐いた。
僕はまだ、日常に戻れていなかったんだ。
ヘンリーは、寝る事にも食べる事にも無頓着で、何もかもがつまらなそうな顔をして毎日を過ごしている。周りからの称賛も、先生方の期待も、張りついたような笑顔で、七割の愛想の良さと三割の冷淡さで受け流す。
普段はそうなのに。時折こんなふうに、パブでの食事やアフタヌーン・ティーに、飛鳥を誘った。
そんな彼に接する時、飛鳥は、これが本来のヘンリーなんだろうな、と漠然と感じた。
ティーバッグで入れる慌ただしい紅茶とは違う、ゆったりと丁寧に淹れられたお茶を楽しむ時間や、胃を満たすためではなく楽しむための食事。それは彼にとって、自分を見失わないための大切な儀式だ。
でも今日は、僕のためだ。僕はすぐに流されてしまうから。
飛鳥は口の中で咀嚼しながら、自嘲的に唇の端を上げて笑っていた。忙しいと何もかも忘れて没頭して、終わるとまた何もかも忘れて呆けてしまう。その繰り返しだ。そんな自分が、妙に滑稽に思えたのだ。
「ありがとう」
ヘンリーは微笑んで、何が? と眉を少し上げる。
「誘ってくれて」
「どういたしまして」
飛鳥は蟠っていた緊張をやっと解きほぐして、眼前の料理に屈託のない笑みを向けた。
寮に戻り、やっとシューニヤからのプレゼントを渡して貰えた。パブでも中身に関しては教えて貰えなかったのだ。期待に頬を紅潮させ、飛鳥はギクシャクと箱を開ける。だが、失望を露わにして、怪訝そうな視線をそっとヘンリーに向けた。
「これって……」
箱の中には、飛鳥がヘンリーにあげたクリスマス・プレゼントが入っていたのだ。
「スイッチを入れて」
箱を放り捨てて取り出すと、言われた通りに、飛鳥は勝手知ったるスイッチを指で押した。
「…………!」
違う! 僕が作ったものとは違う!
長い間探し求めていたものが、飛鳥の、その手の中にあった。
明るい電気の下で鮮明に識別できる映像。薄く透けてはいるけれど、精巧な色ガラスで作られたようなヘンリーのミニチュアが、誇らし気に台座に屹立しているのだ。
「どうして?」
飛鳥は声を震わせ、今にも泣きそうな顔で呟いた。
「どうして、こんなものが作れるの? こんな短期間で……」
がっくりと肩を落とし崩れ落ちそうなその姿に、ヘンリーは困って言い澱む。
「つまり、きみだけじゃないってことだよ。この分野の研究をしているのは」
飛鳥は、涙の溜まった鳶色の瞳をいっぱいに見開いた。
「でも使っているのは、きみのガラスだよ。きみのガラスがなければ、作れなかった」
眉をしかめてぎゅっと目を閉じる飛鳥の頬に、涙がこぼれ落ちた。ヘンリーはその雫をしなやかな指先で優雅に拭き取り、そのまま彼を頭を引き寄せ掻き抱いた。
「僕たちと一緒に作ろう」
飛鳥は何も言えぬまま、肩を震わせてむせび泣いていた。




