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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  空模様7

 その日、アブド・H・アル=マルズークは、意気揚々とマシュリク国の表玄関、アル=マルズーク国際空港に降り立った。国王と皇太子の訃報を受けてから、わずか3日目のことだった。

 彼の送り込んだ刺客(アサシン)から、「契約完了」を映した動画が届けられたのと時を同じくして、彼は王宮からも連絡を受けとった。その内容はすでにアブドの知るところであったが、加えて皇太子サウードに次ぐ王位継承権を持つアブドに、速やかな帰国とその後の指示が求められた。

 王宮内での国王及び皇太子暗殺という不名誉な事実をいかに処理し滞りなく代替わりすることは、最速で解決しなければならない問題であり、空位時代を置くことを嫌悪する王宮内の慣習をアブドは誰よりも熟知していた。この知らせが未だ世界に伏せらているうちに急がなければならなかった。未だアブドは指名手配中であるとはいえ、今、この国で彼よりも身分の高い人間はいないのだ。


 王室専用プライベート・ジェットのタラップをアブドは悠然と降りていった。見下ろす祖国の大地には、近衛兵がずらりと彼を出迎えている。アブドの顔には王者らしい自信に満ちた、満足げな笑みが浮かんでいた。長い亡命生活にかかわらず、その瞳は変わず野心的な輝きに充ちていた。

 同行者はアブドと共に米国へつき従っていた側近数名のみだった。急遽帰国とあってとりたてて荷物もない。顔なじみの近衛隊長の挨拶を受けた後、彼らはリムジンに乗り、空港には立ち寄ることなく出発した。






 ケンブリッジのアーカシャー本社の敷地内にある研究所では、携帯電話の持ち込みは許可されておらず、個人ロッカーに保管するよう義務づけられている。情報漏洩(ろうえい)を防ぐためで、通常、社員は就業時に預け退勤時に持ち帰る。それは、開発室長である飛鳥であれ、同じ扱いだ。違うのは、飛鳥は開発室に泊まり込みで作業することが多々ある、というところだろう。そしてその間中、しばしば飛鳥はその存在を忘れた。

 そんな理由で、研究所にいる飛鳥に連絡を取りたいなら、ヘンリーかデヴィッドを経由するのが確実だ。受付に電話しても、まず取り次いでもらえない。表舞台に出ることのない飛鳥に接触しようと、家族や友人を騙る(やから)がいるからだ。


 デヴィッド経由でようやく連絡を受けた飛鳥が、急いで応接室に来てみると、弟が「おう!」と手を上げた。

「どうしたの、お前」飛鳥はびっくり(まなこ)で呟いた。

「試験だって! 忘れてたのかよ? 酷いな、可愛い弟がクソ真面目に飛んで帰ってきたってのに。飛鳥は家にいないしさ、また、こんなところに引き籠って!」

 一気に捲し立てられ、飛鳥は「ごめん、ごめん」と苦笑いするしかない。実際、自分のことばかりに気をとられて忘れていたのだ。

「お前が落とす訳ないって、信じてたからさ。それに、教授が――」

 吉野の大学に関することは、ハワード教授に任せておけば大丈夫だと安心してたのもあるのだ。


「もう、向こうのケリはついたからさ、俺、もうずっとこっちにいるよ」

「え、そんな急に! 何でまた?」

「ほうら! 飛鳥、全然ニュース見てないんだろ! これ見ろよ!」


 蜂の羽音のような起動音と共に、目の前にTSのスクリーンが現れた。


「アブド大臣、逮捕」見出しに息を呑み、飛鳥は淡々とその記事に目を走らせる。「それで、彼はもう――」飛鳥は呆けた顔で吉野の肩に額をあずけた。思いがけない朗報に力が抜けて、上手く立っていられなかったのだ。

「ほら、こちに座れよ」そんな兄を支えて吉野はソファーまで付き添い座らせてやる。「飛鳥、へろへろじゃないか、ちゃんと食ってない、」

 吉野のぼやきを遮って、飛鳥は腕に取りすがる。

「これでもう、お前も、サウード殿下も危険は去ったってことなのかな?」

「そうだよ。後は、サウードの戴冠式には本物の俺が出てやりたい。それくらいかな」

「本物のお前? あの、例のスペアは――」

「今も向こうで俺のフリして働いてるよ」

「そのためのスペアだったんだ……」飛鳥はふぅっと息をついて、どさりとソファー背中をあずけた。「僕はまた、テロ対策での身代わりだとばかり思っていた」

「銃の的に人口知能はいらないだろ?」

「冗談でもやめてくれよ。これでもずっと心配で、考えないようにしてたんだから」

「ごめん。心配かけたな。でも、本当にこれで終わりだよ。サウードとの契約修了だ。あいつも納得してるよ。しばらくは、遠隔でのサポートは続けるけどな。まぁ、その程度だよ」

「契約?」

「うん。アブドを追い払って、あいつが王位につけるように手伝うって約束したんだ。話してなかったっけ?」

「砂漠に畑を作りたいって話は聞いた」


 はたしてどうだっただろう? と飛鳥は、首を捻る。だけどそれももう済んだ話だ。これから彼の弟はあの過酷な地に戻ることなく、彼の目の届く場所で学生らしく勉強に勤しむと言っているではないか。


「凄いよな。お前が、真面目に、試験を受けに帰ってきただなんて」


 飛鳥の目に涙が滲んだ。何でだろう、と飛鳥は目を瞬かせる。

 いつの間にか、吉野がいる当たり前が、当たり前じゃなくなっていたなんて。


「ああ、僕は、ずいぶん、気が張ってたんだなぁ――」

「ごめん。なんか気が緩むような旨いもん作ってやるからさ。何がいい」

「なんだっていいよ。なんでも好きだよ。お前が作ってくれるなら」


 ふと、飛鳥の脳裏に水無月が浮かんだ。そういえば、もうすぐ6月になる。この菓子を食べたくなるはずだ。水無月が食べたい、と口に出そうとして、言えなかった。この菓子を大好きなサラの顔が脳裏に過ったのだ。自分一人で食べるのも、菓子を口実にして逢いに行きたいと考えてしまうのも、どちらも飛鳥は嫌だった。


「肉。肉じゃがが食べたい」

「昨日作ったばっかだよ。あーあ、デヴィが全部食いやがった」


 大袈裟に悪態をつく弟を、飛鳥は「ははは」と乾いた声音で笑いとばした。





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