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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
792/805

  空模様5

 飛鳥はアレンの話をただ黙って聴いていた。相槌を打つでもなく、疑問を挟むでもなく。吉野の名前が出たときだけその瞳を揺るがせた。話し終えたアレンが、ティーカップに手を伸ばして咽喉を潤した後で、飛鳥はようやく口を開いた。


「たった一つ、って――。僕は、きみたちのお母さんは、この結婚でソールスベリーの家名と貴族の称号を得たのだと思っていたよ。そんなふうに聴いた。記憶違いかもしれないけど」

「祖父にとっては、それで合っていると思います。だから父が、リチャードが倒れてからも離婚しようとしない母に何も言わなかった。だけど母にとっては、そんなもの意味がないと僕は思っています。だって、あの人、それ以上の家門からの求婚だって断り続けているんです。爵位も、権力も、財力もソールスベリーより上だって、鼻にも引っかけやしない」

 どこかやるせなさそうに、くすり、とアレンは微笑んだ。

「もしかして、ブラッドリー家のことを言ってる」

 この名を口にしていいものか迷いながら、飛鳥は声を低めて訊いた。アレンは、黙ったまま頷いた。「それに彼だけじゃありませんよ。母に求婚していた男はそれこそ星の数ほどいる。僕の、本当の父親もその一人だったんでしょうね」とさげずむように唇をゆがめて付け足した。

 飛鳥は、自分自身が傷ついたような、アレンからみると不可解な眼差しで彼を見つめると、居た堪れないような羞恥を浮かべて視線を伏せた。


 それからしばらくの間、二人は何も言葉を交わすことなくお茶を飲んでいた。アレンは、なぜ飛鳥がこんな話を聴きたがったのか尋ねていいものか未だに迷い、飛鳥は飛鳥で、アレンに自分の知り得ることを喋っていいものか迷っていた。


 やがて「アレン」と先に沈黙を破ったのは飛鳥だった。

「きみにこの話をしていいものか、僕には判らないんだ。吉野の話も又聞きに過ぎないし、ヘンリーにしても彼の想像の話でしかなくて——」

「教えてください!」

 勢い込んで立ち上がり、アレンは身を乗り出して言った。ティーカップが弾みでカシャンッと倒れる。

「きみのお母さんとお父さんのことだものね」

 飛鳥は覚悟を決めたように頷く。人様の家庭の事情にこうして首をつっこんでしまう自分が恥ずかしくもあったのだ。けれど——


「吉野も、ヘンリーも、二人とも同じことを言っていたんだ。吉野の方は、庭師(ゴードンさん)に聞いたそうなんだけどね。この薔薇は確かにきみたちのお父さんからヘンリーに贈られたものなんだけど、「悔恨」という名の由来は、きみたちのお父さんが、お母さんとの関係を後悔していたからだって」

 大きな目を更に大きく見開いたアレンの驚愕の表情に、飛鳥も、やはり言わない方がよかったのか、とどぎまぎする。

「ヘンリーは……」言葉を詰まらせた飛鳥を、「兄はなんて?」とアレンは続きを(うなが)して凝視する。

「きみたちのお父さんが、お母さんを愛せなかったことを、彼女の想いに憐れみをかけなかったことを後悔していたんじゃないかって」

 すっとアレンのこわばった表情から力が抜けた。

「そういうことだったんですね」

 すとんと腰を下ろし、「お茶、もう一杯いかがですか?」と、ティーポットを持ち上げて飛鳥に打って変わった微笑を向けた。

「やはり父は優しい人なんですね。あんな女でも、兄から母親を奪うことになってしまった婚姻を後悔していらしたんだ」

「母を奪う——」

「兄を捨てて、本国に逃げ帰ったわけですから」お茶を注ぎながら、アレンはとても静かな口調で話していた。「父がもっとちゃんとした人間と結婚していれば、兄だってもっと楽に、幸せに生きてこられたかもしれないじゃないですか」


 飛鳥は、自分が言いたかったことが上手く伝わっていないもどかしさと、彼の言葉の裏側に潜む母親に対する強い感情に触れ、どう応えればいいのか軽く混乱してしまっていた。


 飛鳥はただ——、知りたかったのだ。

 報われない思いの苦しさを受け止めてもらい、憐れみをかけてもらう、そんな愛の形もあるのだろうか、と。そして、その憐れみすらもらえない、完全な拒絶を受けても、その相手を思い続けることはできるのか——


「僕には無理だ」俯いたまま飛鳥は呟いた。「アレン、ありがとう。答えがでたよ」

 ん? とアレンは小首を傾げる。

「今日、これからしばらく研究所の方に籠ろうと思うんだ。春から延び延びになっていたイベントが迫ってるだろ。今回はデヴィが主体になってやってくれてるけれど、僕も少し参加させてもらうことになったんだ」

 風船がしぼむようにしゅるしゅるとアレンから活気がぬけていった。寂しそうに唇を尖らせる彼に、飛鳥は穏やかな微笑みを投げかけた。

「きみも来てくれると嬉しいかな。時々でもいいからさ」

「アスカさんは泊り、なんですね。もちろん僕も行きます。お手伝いさせてください!」

「ありがとう、助かる」


 萎んでしまった風船は、もうにこにこと笑っている。

 いつも、本当にありがとう、と飛鳥は心のなかで繰り返した。こうしていつの間にか、助けようとしたはずの自分が、助けられていることに気付くのだ。


 報われない想いを大切に包み、それをエネルギーに変えて進むことを止めない彼に——


 やはり、兄弟なんだな、と思わずにいられない。芯が強いのだ。とてもかなわない、そう思う。だけどそれでいい。僕は僕だから。アレンのようにはなれない自分に、飛鳥はようやく諦めをつける覚悟ができた気がした。





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