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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
780/805

  式典2 

「試験に意識を切り替えるのは大変だと思うけど、この時期に戻ってきて正解だったね」と、フレデリックがふと手許の本から顔を上げ、感慨深げな息をついた。アレンはゆるりと微笑んで頷き、同じようにほっと息をついて冷めた紅茶のカップに手を伸ばす。

「これも、ヨシノの言う通り――、ってことだね」クリスは、中空の画面から目を離さないまま呟いた。




 移ろう季節を跨いでケンブリッジに戻ってきたアレンを待ち受けていたのは、彼が悶々と妄想していたような、周囲の心無い剥き出しの好奇心ではなくて、もっと現実的な問題――、学年末試験だった。


 すでに5月に入り、大学の授業も終わっている。クリスもフレデリックも、試験対策は大丈夫なのかと、まずはそっちの方を心配して、今日もこうして集まっている。この時期コレッジ内の空気は、アレンが身を隠す要因となったゴシップよりも、眼前に迫るこの重大事項にこそ意識を占められていたのだ。彼らにしても漏れることなく当面の問題はそのことだ。

 それに彼らから見ても、あえて尋ねる必要を感じさせないほど、アレンはこれまで以上に精神の健康を取り戻せているようだった。何事もなかったかのように日常に戻ることが自然に思え、実際そのように振舞っている。


 とはいえ、当面アレンは大学に近いフラットではなく、ヘンリーの館に滞在することになっている。学内はともかく、油断しているとどんなところからまた同じような攻撃を受けるか判らない。

「ターゲットはきみ、というよりも、ブラッドリーの方だろうからね」と、ヘンリーにしろデヴィッドにしろ、そして吉野からも――、言動にはとかく気をつけ慎むようにと言われている。ただのゴシップではなく、お前は政争に巻きこまれているのだから、個人的な感情で動いてはならない、と。



「ちょうど試験準備期間中に入ってるって、本当に良かったよ。皆自分のことで手一杯だからね。悪気はなくても、変な奴らの好奇の目に晒されるのは嫌なものだからね」


 クリスが深く頷きながら続けて言った。

 アレンのいない間、彼が話してきた大学生たちは、おおむねアレンに同情的で、くだらない捏造記事だと一笑にふしてくれる理性的な友人たちだった。だがなかには、身近な学友としてのアレンではなく、芸能人のゴシップのように面白がって噂話のネタにする、そんな連中も少数ではあるがいたのだ。口にこそ出さなかったが、その苦々しい記憶はクリスの脳裏を掠め、瞳に険を走らせていた。


 フレデリックも同じく深く頷いている。言葉にしないだけで、彼にしてもまたやりきれない焦燥を抱えているのだ。そんな彼らにアレンは逆に慰めるような、労わるような、そしてどこか諦めたような、ひどく優しい微笑みでもって応える。


「ありがとう、クリス、フレデリックも。電話でも話したけど、向こうでもアボット寮長が相談にのって下さってね、あの件は――」


 自分に同意を求めるかのように振られたアレンの視線を受けとめて、「うん!」と、フレデリックが頷いた。だがその眼差しは、それ以上はここで喋らないようにとアレンを押し留めているようだ。アレンは続けるべき言葉を喉元に詰まらせてしまい、ぽかんと口を開け、はっとして「試験が終わった頃にでも、また――」とうやむやと言葉を濁らせる。


「そうだね、まずは目先の課題をやっつけなくっちゃ! 先生方もずいぶん心配されてたんだよ。でも、きみ、ずっとメールで質疑応答してたんだって? 授業(レクチャー)に出てる僕よりもずっと熱心だって聞いてるよ!」


 軽くむくれて、クリスは唇を尖らせている。とはいえそんな表情は長くはもたず、へへっと笑うと、ほうっと長い吐息をついた。


「さすが! どんな時でも頑張りやのきみらしいよ!」

「うん、だから僕たちも安心してきみが戻ってくるのを待てていたんだ。それに、ヨシノもいたことだし――」


 フレデリックが言葉を繋ぐ。


「そういえば、ヨシノは? 試験、どうするんだろう? またあっちに戻っちゃってるんだろ?」

 

 クリスが突然気がついたかのように声を荒げた。「あ、」とフレデリックも息を呑む。吉野の試験日程はどうなっていただろうか、今頃になって何も聞かされていないことに気づいたのだ。


「ぎりぎりに帰ってくるって。最後の週に集中してるからまだ日にちはあるんだって言っていた」


 アレンが安心させるように微笑みにのせる。「ああ、そうなんだ」と各々から安堵の吐息が漏れる。


「なにもこんな時にまで行かなくたって……」

「むしろ彼の場合は、ここにいたって仕方ない、って言うべきなんじゃないのかな? それにヨシノの頭を占めているのは、試験よりも論文だろうしね」

「そうみたいだね。サウードも気にして、よくせっついてたんだ。向こうでもしょっちゅうハワード教授のお名前がでていたよ。怒られるって、ヨシノ、ぼやいてた」

「ヨシノって、いつも怒られてるよね!」


 そうやって尻を叩かれながらも、吉野は教授の期待に応えることを楽しんでいる。

 と、アレンにしろ、クリス達にしろ感じていた。以前よりもずっと強く――。


 サウードの補佐官として、このままかの国に定住してしまうのではないかと危うんでいた吉野が、前回ロンドンで逢った時には、大学を気にかけ、生活基盤を英国に戻すつもりだと言っていたのだ。その矢先、大切な試験を前にしてのこの不在なのだが――。それも吉野らしい、と諦めの境地で見守るしかない。


 ともあれ、マーシュコートでの滞在によるアレンの大学空白期間は、試験に影を落とすこともないらしい。

 アレンは溌剌と喋っているし、クリスもフレデリックもそのことに何よりも安堵している。


 ただ、一つだけフレデリックの気にかかったのは、アレンの話のなかに登場するサウードのことだった。

 ずっとかの国から出国していないはずの彼が、なぜかマーシュコートに吉野とともに滞在していた、という――。








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