式典
「自分でもどうしてなのか、よく解らないんだけどさぁ、僕はここに来るとねぇ、息が詰まるような閉塞感と、老兵士にでも守られているような安心感とを同時に感じるんだ。両価的だよね」
温かなティーカップを両手で包み持って、ふとデヴィッドがそんなことを言った。そして、初夏とはいえ肌寒さを感じる早朝の空を、底から覗きあげるように頭をのけぞらせて仰ぎ見る。
ナイツブリッジにあるヘンリーのタウンハウスには、居間と温室に面したルーフテラスとは別にもう一つ、階段を下りた先に籐の応接セットを置いたテラスがある。今、彼らがいるのは、普段あまり使うことのないそちらのテラスの方だ。
「デザインが、リチャード小父さんのものとは思えない雰囲気だからね、――ファンタジックで。そのせいじゃないの」
アーネストがちらと視線をあげて応えた。だが弟の反応を確かめることもなく、瞳はすぐに元のように固定された。ガラステーブルを挟んだ向かいからは見えない画面を追っているのだ。デヴィッドは今一度、くるりと視線を塀にそって巡らせる。
苔むして薄く緑に色づいた石積みの塀がぐるりと囲う。建物に沿って植えられた八手は大きく育ち、幾重にも重なる葉は、手を振って応えてでもいるかのようだ。その上方に、隣家からの視線を遮るためのルーバーラティス。
そこで切り取られた蒼天。
高く巡らされた白い木製のラティスには、伸びるに任せた常緑の蔦がつたい、緑の中央にぽかりとドアのように見える長窓が、その両脇に小さな窓が4か所、絵画でも飾るかのように高低差をつけて配置されている。
この中空に設置された壁面が、アーネストの言うように、奇異と憧憬、摩訶不思議な安心さえも感じさせるのだろう。
「傍から見える父がマーシュコートの薔薇園なら、ここは彼のためだけの庭なのだろうね。父は、巷で噂されるよりもずっと、ロマンチストな方だからね」
間をおいて、アーネストの横にいるヘンリーが、彼の言葉を引き継いだ。黒籐のソファーに深く体を預けたまま、瞳は優しげに口許は緩ませて。
「ロマンチスト? リチャード小父さんが?」意外そうに、アーネストが振り返る。「何事にもソツのない方だと伺っているよ」
「表向きはね。――いや、そうじゃない。僕が生まれたからだ。僕の存在が、父の生き方を変えたのだろうね」
自嘲的な息をついたヘンリーを、アーネストはちらと見やる。だが何も言わずに軽く頷くに留めておいた。
ソールスベリーとフェイラーの婚姻が、ヘンリーの父リチャードを、引き継いだ事業と財産を守っていさえすれば良かった順風満帆な人生から、過酷な経済界の荒海へと突き落としたのだ。
それでも彼らが平穏な日々を送っていたならば、そこまで酷い状態にはならなかったかもしれない。互いに言葉を交わすことさえなかったという冷たい結婚。妻に寄り添おうとしなかったリチャードに対して、その妻、ヘンリーの母方の実家であるフェイラー家は、経済界というリチャードには想像もつかなかった方面から報復にでたのだ。もっともヘンリーも、アーネストたちラザフォード家も、これは単なる夫婦間の問題ではなく、フェイラー家の仕掛けた権力闘争にリチャードが望まずして巻きこまれた結果だと思っている。
そんな過去の経緯を思い返しはしても、わざわざ口にするほどアーネストは無粋ではなかった。
「ロマンといえば、大切なお兄ちゃんをほっぽって、他国で壮大な蜃気楼の王国を造営してる、うちの問題児はどうしてる、アーニー? 今、エドもあっちに行ってるって聴いたけど」
「聴いたって、誰に?」
「エド本人にだよ、たまたま僕がいる時に本店に来てくれてね」
いぶかしげな兄の声に、朝食の皿に向かいながら喋っていたデヴィッドは、ああ、そういえば話してなかったか、ともごもごと口を動かした。ヘンリーが、ふっと優しい笑みを刷く。
「そう時を置かずに帰ってくるよ」
「どっちが? ヨシノ、それともエド?」
「両方ともさ。ヨシノは、陛下から譲位の承諾を取り付けたそうだよ」
ヒュー、とデヴィッドが口笛を鳴らす。
「いよいよ、うら若きサウード陛下の誕生か!」
「そう、何事も起こらなければね――」
すっと横に振られたヘンリーの視線を受けて、アーネストはやれやれとばかりの苦笑を浮かべる。
「まったくねぇ。今どきの若い子ときたら、無鉄砲で後先考えず突っ走るからねぇ――」
「アーニー、なに年寄りみたいなこと言ってるんだい。無鉄砲はあの子のスタイルだろ! 知ってるくせに!」
ケタケタと声を立てて笑う弟に、アーネストは肩をすくめてみせる。そして、ヘンリーもまた――。
「もちろん彼の話じゃない。彼は――、ヨシノは少なくとも、後のことも、遠い先のことも考える子だからね。問題は、彼ではないんだよ」
すっと細められたヘンリーの瞳は、アーネストに確認するように向けられていた。その視線を追ってデヴィッドも、何事か、とばかりに兄を凝視した。




