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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
775/805

  玉座6

 ひと言ふた言告げてウィリアムをさがらせると、吉野はエドワードだけを(いざな)って応接間を後にした。

 ようやくまとまった時間ができたから、とここでの滞在に退屈しきっていた彼を王宮内にあるスポーツジムに(さそ)ったのだ。「勧められるままに茶なんぞ飲んでるより、暇つぶしならこの方がよほどいいよ」と、にこやかに談笑しながら長い回廊を渡って別棟へと向かう。



 やがてたどり着いたフロアには、最新のマシンや、ダンベルラックがずらりと並び、鏡の前には広々とした空間がとられていた。設備も充分な広さも彼の母国のフィットネスクラブと遜色ない。ただし、管理者はいるのにトレーニングしている人間は一人もいないことが、それらをただ飾られているだけの調度品のように見せている。そのせいだろうか、この贅沢な設備にどこか生気のなさを、薄ら寒さを感じてしまうのは。


 ぐるりと視線を一巡させるとエドワードは吉野に向き直り、口をへの字に曲げて軽く肩をすくめてみせた。


「ここはなんでもあるんだな。まるでレジャーランドだ」

「そうそう外を出歩くわけにもいかないからね。自前で揃えてるってだけだよ」

「確かにここでの暮らしは、すぐに運動不足に陥りそうだな」


 食べて寝る以外とくにすることもなかったこの数日間で、体がなまっていた。それに、冷たく固い大理石とは違うゴムの弾力を足裏に感じていると、今までの緊張が解けていくような気もする。エドワードは大きく肩を回しほぐしながら、「どうせなら、もっと早く教えてほしかった」などと、恨みがましい視線を吉野に投げかける。

「指示が行き渡っていなかったんだね、ごめん」黒髪が揺れ、ぴょこんと頭が下がる。そしてまた持ち上がる。同時に吉野は、すっと一方の壁に下がる垂れ幕を指さして、「スカッシュのコートがあるんだ。ひと勝負しないか?」と屈託なく笑った。


 

 ウェアからラケット、専用シューズまでがサイズ豊富に揃っている。ということは、ここで暮らす王家のためというよりも客のための設備なのか、と更衣室で着替えながら、エドワードは一人納得して吉野を見やる。と、彼は初心者のようにアイガードや膝サポーターまで装備しているではないか。


「なんだお前、初心者なのか! そっちから誘ったくせに期待させるなよ!」   

「遊びで怪我なんかしたら立つ瀬がないだろ。あんたもアイガードくらいしておいてくれよ。いちおう客なんだしさ、怪我させたくないからさ」


 できるものならやってみろ、とばかりに豪快に笑いとばすエドワードを、吉野は涼しい顔でやりすごしている。


 だが、ゲームが始まってすぐに、この対戦相手を鼻先で笑ったことを、エドワードは大いに後悔することとなった。





「まだあんたには、スカッシュは早かったみたいだな、悪かったよ。あんた、怪我からまだ一年も経ってないんだってこと、忘れてた」


 口では謝りながら、とくに悪びれた様子もなくあっけらかんと笑っている吉野をじろりと睨むと、エドワードは口の端でにやりと、継いで晴れやかに声を立てて笑った。素人と侮った吉野に、エドワードは完敗を喫したのだ。あまりの負けっぷりに、むしろ清々しささえ感じるほどの。それを、一年近く前の怪我のせいだから仕方ない、と慰められたのでは、それこそエドワードの立つ瀬がない。


「お前が忘れるはずないだろ! 俺がこの通りピンピンしているかどうか、その目で確かめたかったんだろうが!」


 この国を揺るがせたクーデター未遂事件が、彼ら二人を結びつけたといえるかもしれない。この事件の渦中、エドワードは国王・皇太子護送任務で搭乗した軍用機を叩き落とされ、怪我を負ったのだ。もっとも仕組んだのは英国側のパイロットで、ここにいる杜月吉野ではない。むしろその逆で――。


 その時の記憶がエドワードの背筋を這い上り、鈍い痛みとともに蘇る。


 砂漠に降る厳しい陽光を跳ね、純白を翻す幻のような男の顔とともに――。


 幻が、隣で床に座り、壁にもたれてミネラルウォーターを煽っている無邪気な横顔に重なる。年齢(とし)のわりに老獪(ろうかい)だ、決してあなどってかかるな、と注意を受けていた、まだまだ子どものように見える少年の上に――。

 

 ひとしきり顔をくしゃくしゃにして笑っていたエドワードは、いきなりぴたりと笑いを納めて、「俺は、お前に礼を言うべきなのか?」と不快そうに眉をひそめた。


 この激しい感情の振れ幅に、吉野の方がたまらずくっくと肩を震わせる。


「別にいいよ、礼なんて。あんたを助けたかったわけでもないし」

「ようはヘンリーに貸しを作りたかった――、そういうことか?」

「あんた、自分があいつにとって、それだけの価値がある人間だって信じてるんだ?」


 唇を結んだまま応えないエドワードに、吉野はふわりと柔らかい笑みを見せ、いかにも気を許しているような、のんびりした口調で喋りだす。


「そうだね、ヘンリーの機嫌を損ねるのは避けたかったのもある。でもそれ以上に、我が身を守るためだよ」

「俺たちをだまし討ちにしたのが、保身のためだっていうのか?」

「論点がずれてるよ。今話してんのは、俺があんたを助けた理由だろ? アブドの計画通りにあんたたちに死なれたんじゃ、英国からどんな難癖をつけられるか判ったもんじゃないからだよ。砂漠で極秘任務中の英国人が何人も殺されたとなっちゃ、あんたたちだって、黙って終わらせるわけにはいかなくなる。それこそどんな事故原因を捏造されるか――、だろ?」

「アブドの計画――って、お前、どこまで掴んでたんだ?」


 訝し気に眉根をよせ、その大きな瞳で自分を威嚇するように見つめる相手を、吉野は笑っているような楽しげな瞳で眺めている。


 どの程度の器なのか――。


 この瞳に推し量られている、そんな気がして、エドワードは負けじとこの澄んだ鳶色の瞳を見返した。


 だが彼の内側に響いてくるのは、吉野から受け取る何かではなく、自分の腹の内などとうに見透かされて、相手にもされていないのではないか、という自分では考えもしなかった情けない不安ばかりで――。


 いつしか、彼の顔から笑みは消えていた。



「全部。アブドの通信網なんて、ザルだもん」


 吉野は片膝に頬をつけ、また、くっくっと声を殺して笑っていた。





 

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