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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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玉座

 サウードの帰国に際して、吉野は航空会社のスイートクラスを手配した。行きはルベリーニのプライベートジェットだったが、帰路は予定が急すぎて都合がつかなかった、――などと言うと、(ルベリーニ)は顔をしかめるに違いない。わざわざ用意しなくてもスイートなら、一座席にリビングとベッドルーム、シャワー室までが付属する完全な個室だから、これでいい、と吉野は彼の警護体制を確認することなく出発したのだ。


 とはいえ、一般座席のように常に座っている状態を強いられることはなくても、機内ということには変わりない。狭く区切られた閉塞感が嫌で、吉野はサウードと専用ラウンジに移り、小さな円形テーブルに陣取った。客室乗務員を下がらせれば、もはや彼ら二人で占有できる空間になる。

 吉野はだらしなく円形のソファーに脚を伸ばしもたれている。サウードにしろ、胡坐を組んで姿勢を崩している。機内とは思えないほどくつろいだ空気のなか、吉野は物憂げに視線を漂わせ、問いかける、というふうでもなく呟いた。


「こうやって馬鹿してんのってさ、いつまで許されるんだろうな」

「きみのすることを、誰が咎めると?」


 そんな者なぞいるはずがない、とばかりにサウードはクスクス笑う。

「う~ん」吉野は気怠げに大きく伸びをして、「誰が、ってんじゃなくてさ――」と言葉を濁らせる。


「時々、判らなくなるんだよ。ああ、俺、馬鹿やってんな、って思うのにさ。誰からも怒られるわけじゃない。ガキの頃なら、この馬鹿野郎! って叱ってもらえたのにさ、今は何も言ってもらえない。どうケリをつけるか自分で決めろって、許してもらえてるってことなのかなぁ」

「僕の質問に答えてないよ、ヨシノ。誰の許しを想定して言ってる?」


 先ほどのからかうような口調は引っ込め、サウードはもう一度訊ね返した。


「誰も――、たぶん、神さまとかそんな漠然としたもんだよ」

「きみの兄上じゃなくて?」

「俺、そこまでイカれてはないつもりだけどな」

「これは、きみが、きみの兄上の神に成り代わろうとしたことへの懺悔(ざんげ)なのかい?」


 サウードの抑揚のない口調と、けして咎めているわけではない揺るぎなく深い眼差しをちらと見つめ返すと、吉野は軽く肩をすくめた。


「飛鳥からしてみれば、そうだったのかもしれないな。俺も、ヘンリーも……」


 それが飛鳥の望む幸せだと、勝手に仮定して事を進めた。本人の心は置き去りのまま――。その結果がこれだ。


 先走り過ぎたのだ。飛鳥の結婚も、婚約も、吉野はビジネスの一環のように扱っていたのかもしれない。頭では、飛鳥の積年の想いをくみとり、叶えようとしたつもりだったのに。


 サラの心がこれからどう動くかは、吉野にだって判らない。だが彼は、飛鳥が今、どう感じているかということだけは見誤ることはないと自負している。ロンドンから戻って以降、吉野の前で飛鳥の心は重く湿って閉ざされていた。言葉に出さなくとも、想いは通じ合っていると信じてこれまでやってきた兄弟なのだ。この変化を吉野が見逃すはずがない。そして、飛鳥が今後何を望むのかも――。




「馬鹿やってるのは、おそらく、きみだけじゃないよ、ヨシノ。ヘンリー卿にしても、彼女にしても、それにきみの兄上も――。もともと彼を日本に帰国させないための婚約だったのだろう? 目的は果たしているじゃないか」

「そんなもの、渡りに船で乗っかっただけだよ。飛鳥は出会う前からサラに焦がれてたんだぞ。それを知ってたから、」

「彼女に、というよりも、その類まれな才能に、だろ?」


 ふふっと頬を緩めてサウードは笑った。


「僕が言うのもおこがましいけれど、きみの兄上と彼女が二人並んでいる姿は、個人的な想いで結ばれているというよりも、同じ目的に向かう同志のように僕には見えていたよ」


 見る影もなく落ち込んでいるこの天才児は、どれほどの異性と付き合おうと、誰かに恋焦がれるという感情を理解することはないのかもしれない、とサウードはふと思う。


 対象の人格も思考も感情も、目的を見極めメスを入れて切り分けてしまう。そんな咀嚼のされ方をした相手の混沌とした想いは、彼にはどんな味に感じられるのだろうか――。


「同志……、確かにそうだな。俺にとってもそうだ」

「彼女が本当に心から愛しているのは――」


 そこまで言いかけて、サウードは、はっと言葉を喉元に留めた。憶測で言っていいことではない、と急ブレーキがかかったのだ。あー、と吐息ともつかない息をつき、急遽、関係のない文脈にすり替える。


「僕にしたって、結婚は愛とは別のものだ。即位式の次は、間を置かずして結婚式が待っている。彼女にしても、それ相応の地位にいるんだ。ヘンリー卿のおっしゃられるように、きみの兄上との話は、このまま滞ることはないんじゃないかな」

「そうなるのを、きっともう飛鳥は望まないよ」

「そんなに簡単に諦めてしまえるものなのかな。もしそうなら、きみの兄上のそれも、恋とは違う想いだったのかもしれないよ」

「そう言うなよ。俺たちはお前らとは違うんだぞ。政略結婚を義務として受け止めるような価値観は持ち合わせてないんだ」


 吉野は眉を寄せ、唇を尖らせて言った。結婚を自らの地盤を強固にするための義務としか考えられないサウードに、飛鳥の傷心が解るはずがない、とばかりに。そして同時に、この場で自責の念に溺れ、サウードに愚痴っている自分にも見切りをつけた。

 この問題はここで保留だ。こんな腑抜けた心持ちで事に当たっていては、どんなミスを犯すことになるか計り知れない。今眼前にある問題を滞りなく片づけ、それからゆっくり考えればいい。


「でも、まずは即位式だな。お前の結婚話も、飛鳥のも、それより後の話だもんな」


 口調を改め身体を起こした吉野は、背筋を伸ばして通路に待機するイスハークを呼んだ。





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