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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  クリスマス・マーケット2

「今日はずいぶんご機嫌だね、ロレンツォ」

 飛鳥はそう言いながらも、小さなため息を漏らしている。

 これでも彼は、ラテン語を教えてくれているつもりなのだろうかと。


 ちっとも勉強にならないじゃないか……。


 ロレンツォは、この自習室に入室した時から全身幸せオーラをまとっていた。飛鳥のその一言を待ってましたとばかりに「聞いてくれるか、その訳を!」と、浮かれた口調と大げさな身振りで顔をぐっとよせてくる。これでは飛鳥は頷くしかないではないか。




「ヘンリー・ソールスベリーが初めて話しかけてくれたんだ!」


 まさか、今朝のあれ? と、飛鳥は顔を引きつらせながら訊ねる。


「ロレンツォ、きみ、ヘンリーと知り合い――、だよね?」

「やつのことなら昔から知ってるよ。一方的にな」


 ロレンツォは内ポケットから写真ケースを取りだし、飛鳥の目前に自慢そうにつきつけた。


「うわ! すごく可愛い子だね。いやそれより、綺麗っていうべきなのかな」


 柔らかな皮製のケースに入った写真には、古風なドレスを着て花冠を被った可憐な少女が写っていたのだ。


「初恋なんだ」

「わかるよ。こんな子に出会ったら、速攻で恋に落ちちゃいそうだね」

「そうだろう! お前なら解ってくれると思ってたよ! ひと目惚れなんだ。すぐに抱えきれないほど深紅の薔薇の花束を捧げた。プロポーズしたんだ」


 飛鳥はその写真の少女に見とれながら、なぜだか腑に落ちないもどかしさを感じていた。


 どこかで、会ったことがあるような――、そんな既視感に。


 ロレンツォは、思い出を噛みしめるように目を細めている。


「彼女はその中の一本を抜き取ると、俺の制服のボタンホールに挿して、こう言ったんだ。『聖ジョージの日おめでとう』。――それから周りにいたほかの奴らに同じセリフを言いながら、俺の薔薇を一本一本配っていった……」


 まさか……。


「これ、ヘンリー?」


 かわいそうな、ロレンツォ……。


 飛鳥の同情的な視線に、ロレンツォは言い訳をするように手を振る。


「男だって知った瞬間は、天国から地獄に叩き落とされた気分だった。でも、あの日の、可憐で、純粋無垢で、その上近寄りがたいほど高貴な美しさが忘れられないんだ。だが、あれから何度手紙を書いても、プレゼントを贈っても、全部送り返された。ただ、友達になりたかっただけなのに……」


 日本じゃ、そういうのストーカー、て言うんだよ。


 飛鳥は顔を強張らせたまま、その言葉をかろうじて呑み込む。



「それが、彼の方からこの学校に来てくれるなんて! 神よ、感謝します!」

 ロレンツォは、胸の前で手を組み合わせて天を仰ぐ。


 可哀想なのは、ロレンツォなのか、ヘンリーなのか?


 飛鳥は、「でもその写真の彼女は、ヘンリーだけどヘンリーじゃない。何かの仮装してるんでしょ? 今のヘンリーにそれを求めるのはおかしいよ」と、慰めとも諫言ともつかない言葉を口にした。

「そうじゃない。俺は、やつのあの高貴な魂に魅かれているんだ。男であろうと、女であろうと関係ない。アーサー王に忠誠を誓う円卓の騎士のようなものさ」

「ヘンリーに好きな人がいても?」

「変わらない。それに知っている。有名だからな」

「有名って?」

「これだろ?」

 ロレンツォは左腕を持ち上げ、その内側に指で一本の線を引く。


 怪訝そうな飛鳥の表情に逆に驚いたようで、彼の饒舌に拍車がかかった。


「なんだ、知らないのか? ヘンリーの女はカラードだってこと! やつはエリオット校の正餐会でそのことを侮辱されて、その場で自分の腕を切り裂いてこう言ったんだ。皮膚の色が白だろうが黒だろうが、その下に流れる赤い血は人間、皆同じだ。ブルー・ブラッドよりも、ノブレス・オブリージュこそが貴族の証だ、とな。啖呵を切ってエリオットを退学してきたんだよ。お前らみたいな馬鹿どもとはいっしょにいられないってさ」


 飛鳥は唖然と目を見開いて口をパクパクさせ、かろうじて声を絞りだす。


「ブルー・ブラッドって?」

 ロレンツォは、袖を捲って自らの白い腕を伸ばして見せた。

「ほら、静脈が透けて見えるだろ? 日焼けしていない、労働していない白い肌の血脈、つまり貴族のことだ。要するにな、貴族の血統の上にのさばり返って他を軽んじ、本来の上流階級の所為である義務を果たす事を忘れた連中と、ヘンリーは袂を分けたのさ」


「彼女を侮辱されたから?」

 ロレンツォは、頷いて自慢そうに微笑んだ。

「男なら、そんなふうに愛を捧げてみたいだろ? 誰か一人に。俺にとっては、それがヘンリー・ソールスベリーだったてことだ」


 そんなふうに愛されたいのではなく、愛したい、ヘンリーのように。


 飛鳥は驚きのあまり身じろぎもできなかった。

 怖いよ、僕は、と飛鳥は声に出すことなく呟いていた。そんなふうに愛されるのも、愛するのも、怖い、と――。

 all or(全てか無か) nothingではないか。

 これが文化の違いなのだろうか。飛鳥は納得できない。けれど、そう言うロレンツォ自身はとても彼らしくも思え、何も言えなかったのだ。



 だからただ呆然と、ロレンツォの抜けるような白い腕を走る蒼い血管に見入っていた。







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