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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
767/805

  傀儡7

 爽やかな初夏の陽射しの下で、重なりあう純白の小花と淡い緑の小さな葉を散りばめた枝は、立ちあがり、被さり、落ちる波のようだった。緩やかな斜面に広がる春の香りをまとったシルバープリベットの海原のまにまに、くすんだ緑青(ろくしょう)丸天井(ドーム)が見え隠れする。その西洋風東屋(ガゼボ)を目指して、白い波間を泳ぐように飛鳥とアレンは細い小径を上っていった。


 やがて蔦の絡まるコリント式石柱に支えられたガゼボ全景が現れた。館からは距離があったので、二人ともすっかり息が上がっていた。息を整える間来た道をふり返ると、白波の道の先は芝の緑、そして広がる池の青のコントラストが美しく、今度は揃って感嘆の息をつく。


 景色を一望する展望台として作られたのだろうが、この場所の印象は、こんもりと茂る樹々に守られた隠れ家のようだった。柱のひとつに、彼らを呼びつけた吉野の背中があった。眠っているのか、肩をつけ、だらりとよりかかっている。飛鳥はアレンと顔を見合わせ、悪戯っ子のように笑うと唇の前で人差し指を立てた。


 足音を忍ばせ、そっとその背中を叩こうとした時、吉野がくいっと頭をのけぞらせて飛鳥を覗きあげる。

「遅かったな。待ちくたびれた」

「なんだ、せっかく驚かせてやろうと思ったのに!」

「俺の後を取ろうなんざ、飛鳥、100年早いぞ」


 淡々と言い返しながらもどこか投げやりな笑みをのせ、吉野は石のベンチをまたいで向きを変えた。飛鳥はちょっと驚いたように目を見開いて、そんな吉野の些細な素振りを訝しむ。横に腰を下ろし、真面目な眼つきで弟を見据える。


「景色がいいから見にこいって呼んでおいて、お前、ずいぶん機嫌が悪そうだね」

「ああ、色々あるんだよ。やらなきゃいけないことがさ。面倒くせぇ……」

 吉野はぼんやりと視線を漂わせ、大きなため息を一つつく。

「予定より早いんだけどさ、俺、一度サウードを連れてむこうに戻るよ」


 え――、とアレンが息を呑む。


「で、お前はどうする?」

「どうって?」

「すげ、眼、でかいな」


 吉野の前に突っ立ったまま瞳を丸めて凝視してくるアレンを見上げ、吉野はククッと笑った。笑われて、アレンはぷっと唇を尖らせる。


「ここにお前だけ残るんじゃ退屈だろ。戻れよ。そろそろほとぼりも冷めていい頃合いだろ。あいつらも待ってるしさ」



 フレデリックやクリスが首を長くして、アレンの復帰を待っている――。


 とたんに顔を緩ませたアレンのくるくる変わる表情を、吉野は目を細めて見守っている。アレンにしろ、自分を気にかけてくれている友人に会いたくないはずがないのだ。


 当初置かれていた可視化できない状況へのアレンの恐怖心や羞恥、漠とした不安は、外界から完全に遮断されたこの館へ移ってからというもの徐々に薄れていき、やがて完全に囚われることもなくなっていった。吉野がここにいる、ということも大きかったのだろう。クリスやフレデリックに連絡を取るだけの余裕も取り戻せている。アレンにしても気遣ってくれる彼らの真摯な想いを、言われるまでもなく解っているつもりだった。


 だが、それでも、ただ時間が止まったようなこの場所に浸りきって、現実に戻る決断を先延ばししたかった――。


 だから吉野に呆れられるんだ、とアレンは笑みを消し瞼を伏せる。そしてそのまま、絞りだすような低い声で応えた。


「そうだね。僕もそうしなくちゃって思っていたところ。大学も気にかかるし」

「それにデヴィもな。早くお前に戻ってきてほしいって愚痴ってたぞ」

「え? 僕にはそんなことおっしゃらないのに」ふっと目線を戻し、また真意を問いかけるように吉野をじっと見つめる。

「そりゃ、自分で決めろってことだよ」


 誰かに望まれるから――、ではなく、自分の心の状態が落ち着いて、大丈夫だと思えるのなら。

 自分の意志で、自分のことを決めろ。


 確かに、デヴィッドならそう言うに違いない。日々の映像通信で、日常のことや、インテリア事業の話はしている。けれど彼はアレンをせっついたりはしなかった。彼自身が自ら立ち上がり、このやすらぎの中から踏みだすまで見守ってくれていたのだ。そのための方法を共に考えてくれていたケネスと同じように、遠く離れていてもデヴィッドもまた、こうしてアレンを支えてくれているのだ。きっと、もどかしく歯噛みしながらも――。


 デヴィッドの飄々とした姿に思いを馳せ、アレンはふわりと顔をほころばせた。


「僕は、本当に恵まれている」


 いつだって、こうして待ってくれている人たちがいるのだから。と、ほっと柔らかく息をついたアレンに、「そうだな」と、吉野は温かな声音で相槌を打った。けれど、その眼差しはすぐに厳しく凍り、アレンではない別の何かに意識を移したようだった。飛鳥はそんな心ここに在らずの弟を咎めるように睨むのだが、それすらも今の吉野の眼中には入っていない。アレンにしても、唐突な触れられることを拒むような吉野の空気に戸惑いを覚えて何も言えなくなっていた。


 ただならぬ問題でも起きたのか、と飛鳥は気が気でないのだが、さすがにアレンのいるこの場で尋ねることは(はばか)られた。

 


 やがて「飛鳥」、と吉野のはっきりした声とクリアな瞳に呼ばれ、すっと飛鳥の緊張が引いた。

 ん? と飛鳥は小首を傾いでみせる。


「なぁ、飛鳥――」

「なに?」

「いや、いい、何でもない。――大したことじゃないんだ、飛鳥はヘリ使わないだろ。こいつも弱いからさ、イベントで戻るんなら送っていってくれたらな、って」

「うん、もちろんそのつもりだよ。きみがそれでいいのなら」


 座ったまま確認を取るように見上げた飛鳥に、アレンは「ありがとうございます。そうさせてください」と艶やかに微笑んで応じた。だがすぐに「あ、」と声をあげ、「でも、彼もいっしょ――、になるんだよね?」と吉野に視線を流す。

 アレンの中で、今の吉野がパリで再会した時の姿に重なっていた。あの時の吉野はアレンの身辺警護に頭を悩ませていて、素っ気なく冷ややかでさえあったのだ。

 吉野といえども、右から左へと問題を解決していくのではない。そう見えるのは、解を導きだすまでの集中力のたまものだ。

 一人納得し、アレンは連想からフィリップのことを思いだしたのだ。


「アスカさん、彼のこと苦手ですよね」

「いや、まぁ、大丈夫。僕はかまわないから」

「あいつは同じ車には乗らないよ」


 フィリップの存在はどこか腫れ物に触るようで、どう接していいのか飛鳥も未だに馴れないのだ。

 だが、吉野の頭を占めているのは(フィリップ)のことではない。どうでもいいとばかりに投げ遣りに返し、苦笑して立ちあがった。


「ここ、綺麗だろ。もっと暑くなったらあそこの池で泳げるんだ。いいよな、こんな環境で育つのって。なぁ、飛鳥、ずっとここで暮らしていけそうか?」


 肩ごしに振り返った吉野の眼差しは、どこか物悲しげに見えた。飛鳥は自分の心中を見透かされたような気がした。

「そうだね」と、いたたまれず弟から目を逸らした。そして、「アレン、また夏季休暇にでも来るといいよ。薔薇園が素晴らしいんだ。とても綺麗だよ」と不器用な笑みを作ってぎこちなく話を逸らしていた。







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