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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
766/805

  傀儡6

 いよいよケネス・アボットがこの館を退出する当日ということで、朝食は揃って摂ることにした。

 けれど時間になっても、肝心のケネスが顔を見せない。


「昨夜遅くまでつき合わせてしまったんだ。疲れて寝過ごしてるなら、悪かったね」

 顔を曇らせて申し訳なさそうに言う飛鳥を、「そんなヤワな奴じゃないって!」と吉野は笑って否定する。

「いえ、すでに起きておいでです。お呼びして参りましょう」

 マーカスがにこやかに言い踵を返した。

「起きて――、どこにいるんだろう。寝てないのかな、彼」

 飛鳥はますます心配そうに眉をひそめ、その不満の矛先を弟に向けた。

「お前、彼のこと振り回しすぎだろ! やっと帰ってきたと思ったらスヌーカーだの、数学パズルだの!」

「べつに大したことじゃないだろ! またしばらく会うこともないんだしさ。だいたいあいつは、平均睡眠時間が3時間でこと足りる化け物みたいな奴なんだぞ。2日や3日寝なくたって死にゃしないって!」


「その通り!」当の本人がマーカスに続いて、にこにこと笑みを湛えて入ってきた。「遅れてしまって申し訳ない。名残惜しくて、早起きして庭を散策させてもらったら、お茶をいただいている間に寝入ってしまっていました」

 どこから会話を聞いていたのか、視線は弟を責めていた飛鳥を宥めるように向けられている。

「おかげでかっきり3時間睡眠も取れたので、すっきりしました」

 などと冗談めかして微笑まれると、飛鳥も苦笑いして隣に座る弟を見やるしかない。


「ああ、それで……。百合かな、この香りは」

 珍しくこういう席では寡黙なフィリップが、ぼそりと呟いた。ケネスは軽く頷く。

「袖に花粉がついてしまってね」

「百合の花粉? こするなよ、それ、落ちなくなるぞ」

 すでに食べ始めている吉野が、口をもごもごさせながら言った。そして「マーカス」と呼びかけると同時に、執事がケネスに歩み寄り、丁重にジャケットを預かり退出する。

「落とすのにコツがいるんだ。メアリーに任せておけば大丈夫だよ」

「そう、ありがとう。きみって思いがけないことに詳しいね。専門は野菜だけかと思っていたよ」

「ああ、花は育てないよ」


 訝しげな眼差しで小首を傾げたケネスに、「うん、こいつは――、」と、飛鳥が変わって説明し始めた。今は、吉野は食べる方に忙しいのだ。自ら進んで自身の趣味や生い立ちなどを、食卓の肴にする気はさらさらないだろう。けれど、吉野の子どもの頃の話となるとアレンは瞳を輝かせ食いついてくるし、サラも表情は変わらない割りに耳をそばだてて聴くのだ。

 飛鳥にしてみれば、吉野の幼少期、近所のおばあさんのお茶のご相伴にあずかりながら花の生け方を覚えたとか、教わっていたとかは、既出の内容の気もするのだが。食卓が盛り上がるのなら、それでいいのだろう。もちろん今朝の主役はケネスなので、吉野の話はそこそこにしておいた。

 



 

 ケネスが大袈裟なのはごめん被りたいと照れたように言うので、送別はこの朝食の席ですませた。玄関の車寄せまで送っていったのは、吉野とアレンの二人だけだ。

 当たり障りのない挨拶と握手を交わすと、ケネスは車に乗りこんだ。だが、下ろした車窓から顔を出すと、笑みを消して「アレン」と呼びかける。唇を結んで顔をよせた彼に、「早まるんじゃないよ」と釘をさすような一言をささやく。神妙に頷いたアレンは、ぎこちない笑みを()いている。継いでその肩越しに、「では、またね」と微笑みかけ、「ああ」という吉野の首肯を潮に、ケネスは正面へと姿勢を正した。


 

 走りさる車をぼんやりと見送り、そのシルエットが消えると、吉野は顔をしかめてアレンを見据えた。


「で、セドリックはどうするつもりなんだって?」


 唐突に切り込まれ、アレンは瞳を丸めてまじまじと吉野を見つめ返した。


「――僕の意志を尊重してくれるって」

「それは前にも聴いた。それから?」

「特には……」

「な、わけないだろ」


 いらついた口調で問われたところで、本当に答えようがないのだ。中傷記事に関しては、彼の方からは行動しない。そういう約束だ。姉との婚約や、家同士の思惑、そういったことに関しては、アレンにしてもセドリックの動向を聴いているわけではない。まして狙撃事件に関しては、ケネスは口を濁して語ろうともしなかった。


 きょとんと見つめてくるアレンの真っ直ぐな瞳から目をそらし、吉野は大仰にため息をついた。


「まじかよ――」


 アレンが自分に嘘をつくとは思えない。だが、真実を言っているとも思えなかったのだ。それに、それ以上の気掛かりもあった。


「お前、ここの庭で百合を見たことあるか?」

「百合? まだ早いんじゃないのかなぁ。咲き始めるのは、5月――、6月くらいと思うよ」

 そんなことを訊く吉野の方が不思議だと言わんばかりだ。

「あ、さっきの花粉のこと? そういえば、百合って言ってたね。似たような花が咲いてるのかな。詳しく聞けばよかった。アボット寮長は散歩がお好きなんだ。僕なんかよりずっとここの庭にお詳しいよ」 


 ほわりと微笑んでいるアレンの顔つきは、まったくといって邪気がない。自分からこの話題を振ったくせに、吉野は気のなさそうに、ふうんと生返事を返しただけだった。アレンは知らない。ならば、その方がいい。

 ケネスは百合を見に行ったことを悪びれることもなく、隠そうともしなかった。だが足の悪い彼が、吉野やフィリップのように、あの高い壁を乗り越えてあの庭の中へ下り立ったわけではないだろう。となると吉野には、あの特別な庭の主人自らケネスをあそこへ迎え入れた、としか考えられない。


 朝食の席では黙りこくったまま、なんの感情も見せなかったサラに思いを馳せ、吉野は、不思議そうに自分を見つめているアレンのことなど眼中にないかのようなしかめっ面で、延々と続く白い砂利道の先に臨む湖面のきらめきを、目をすがめて睨んでいた。





 


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