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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
765/805

  傀儡5

 吉野が真顔でそんな愚痴を零していたものだから、サウードはその日の午後を、図書室ではなく、コンサバトリーでの茶話会にあてることにした。吉野の気掛かりを解消する一助にでもなればという思いもあったが、戻ってきた彼本来の聖域ともいえる、あの天幕の内側に自分がいることが、やはり相応しくないように思えたのだ。




 白い鋳鉄に支えられた丸屋根(ドーム)のガラス空間に満ちた、濃い緑に染まる空気は柔らかく、清々しい。


「もっと早くここを使わせていただけばよかったな」

 サウードは鷹揚に微笑み辺りを見回した。

「きみの国の、宮殿の中庭に少し似ているね」

 アレンがぱっと思いだしたように目を丸めて言った。

「あ、そうか。葉陰で休んでいる感じが――。そうだね、だから懐かしく感じたんだね」

 

 そんな当たり障りのない会話をしながら、サウードの視線は、ついアレンの隣に座るケネス・アボットへと滑っていく。


 

 彼は、明日にはここを発ち、オックスフォードへ戻るという。サウードにしろここでの滞在中、食事に、お茶にと接する機会は多々あった。けれどこんなふうに、確かな関心を持ってその場にいるのは(まれ)だった。

 それは今に始まったことでもなく、エリオットにいた頃からそうだった。同じ寮で暮らし、寮長としての彼を知っていたにしても、その立場以上の意味はない。時折、会話のなかで名を聞くことがあっても、しょせん彼は吉野の処理するいくつもの盤上の駒としての存在でしかなかったのだ。自分には関係ない、そう思っていた。



 ケネスやアレンを前にしながら、サウードは、ぼんやりと過去の記憶を手繰り寄せていた。心がこの場にないことに儀礼的に瞼を伏せ、ゆっくりと紅茶を味わいながら。



 ケネス・アボットの存在が、在学中彼にもっとも身近に感じられたのは、アレンの誘拐事件の時だった。ケネスがその年度のカレッジ寮長だったから、当然といえば当然だ。

 吉野はこの事件の主犯格の生徒の処遇で、生徒総監も兼任していたケネスと意見が対立し、事件後は、仲たがいというほどではないが、一本線を引いた付き合いをするようになった。――と、アレンやクリスたちは思っているはずだ。寮長であるケネスではなく、監督生代表のパトリック・ウェザーとばかり懇意にする理由を彼らに尋ねられた時、吉野がそう説明したからだ。


 だが、実際は違う。サウードは、あの事件に至るまでの経過から、吉野の取った采配を知っている。そして、彼とケネスとの関係性も。事件をきっかけに、ケネスは自らの立ち位置を吉野に明かし、共同戦線に切り替えた。


 アーネスト・ラザフォードがフレデリックを吉野の監視役としたように、ヘンリー・ソールスベリーは、ケネスを吉野のサポーターとしていたのだ。ケネスは吉野にとって煙たい相手――、彼の背後にいるヘンリーを見据えて、手の内を晒したくない、また、安易に手を借りるわけにはいかない相手として再認識されたのだ。


 逆に同じヘンリーの派閥といってもパトリックは、吉野には御しやすい存在だった。何よりも、吉野は彼の弱味をしっかりと掴んでいたのだから。そしてその弱味を最大限に利用して、彼ら以降の校内人事を望み通りに遂行した。吉野の想定では、ヘンリーがアレンのケンブリッジ進学に賛同するかどうか、確信が持てなかったからだ。



 そんな経緯(いきさつ)を頭の中でたどりながら、アレンと気さくな会話を楽しみ、穏やかにお茶を飲んでいるケネスに、サウードはもう一度視線を据える。


 この一見冷ややかに見える彼が、アレンの誘拐事件の背景にあった麻薬密売を校内から排除するために、留年までしてエリオットに留まり、探り続けていたのだ。その執念を、吉野は買っている。そして、一目置いている。それは、ヘンリーが去った後のエリオットで、彼の意志を受け継いでのことだった、と吉野は言うのだが――。


 サウードには、それらのことは既に終わったことで今さら思うこともない。事件は解決しているのだ。エリオットを離れたヘンリーが未解決の問題を後輩に託したにせよ、その関係性が未だに続き、ここでも発揮されていると勘繰るのは考えすぎではないだろうか。

 何よりここは彼の実家ともいえる場所で、学校(エリオット)のような不可侵領域ではないのだ。



「殿下も、お国のことを思いだしておいでですか」

 

 ぼんやりと眺めていたサウードの瞳を、一足先に現実世界へ立ち返る自分への羨望と受けとったのか、ケネスがにこやかな微笑とともに尋ねた。


「いや、僕は、――エリオットを。こうしてあなたを前にしていることで、今一度僕たちの母校を懐かしんでいました」サウードもまた柔らかく目を細めて、唇を美しく引きあげる。「あの頃が一番楽しかった」

 アレンも大きく頷き、嬉しそうな息をついた。

「確かにそうだね。アボット寮長がこうしていてくださると、あの頃のままに安心できる気がします」


 安心――。


 その一言で、サウードは意外そうにアレンを見やった。

 きみの安心は、吉野の許にあるのではなかったのか、と。


「そう言ってもらえると報われる気がするよ。エリオットで思いだすのは、自らの至らなさばかりだからね」


 ケネスは軽く肩をすくめて苦笑している。全校生徒の頂点に立つ生徒総監の地位にいたのだ。その重責の前には、どんな善処も満足には至れないのかもしれない。


「そうか――」サウードは納得したように独り言ちた。

 自分たちが、彼とは別の世界に隔絶されていた間に、いつの間にか、アレンの世界は吉野だけではなくなっていたらしい。

 くっと咽喉を鳴らして笑ったサウードを、アレンが、ん? と小首を傾げて見ている。サウードはゆるりと笑みを強めて、軽く首を振った。

 自分はどうなのだ、という自嘲を抱き、知らぬ間に変わってゆく友人とを比べていた。ヘンリーがケネスをここへよこした理由は、この辺りにあるのかもしれない、との思いを強めて。


 もしそうならば、吉野はどう思うのだろうか。どうするのだろうか。

 この美しい鳥を、鳥籠から放ってやるのだろうか。


 そんな疑問を投げかけるように、サウードは、朝焼けの空のようなアレンの瞳に見入っていた。







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