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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
761/805

傀儡

 春らしい澄みきった蒼空が夕闇に沈み、モダンな家具の輪郭があわく溶け合う室内で、ヘンリーは、ソファーにもたれてぼんやりと腕の時計を眺めていた。


 5、4、3、2、1……。


 唇だけで数えていた秒針がカチリと天を指すと同時に、控えめなノックの音がしてドアが開く。


「おかえり」


 緩やかな所作で立ちあがると大きく両腕を広げて、告げられていた時間ぴったりに訪れた腹心の部下ウィリアムを迎え入れる。しっかりと抱きしめ、背中をポンポンと叩いてねぎらう。


「ご苦労だったね。元気そうで安心したよ」

「わずか3か月たらずです」

「待つ身としては、長かった」


 腕をほどいて、ヘンリーは心からの笑みをたたえた。だがすぐに軽く眉根をよせると、ウィリアムのライムグリーンの瞳を、気遣うような優しげな眼差しで奥の奥まで見通すかのように覗き込む。

 

 変わりない――、わけではないようだ。本来、静かな瞳をした男なのだ。だが今は、その静けさはどこか獰猛さを帯び、憂いや諦観と交じり合い、大きな疲労を湛えている。


「報告よりも、先に休息をとった方がよさそうだね」

 薄らと微笑して、「いいえ」とウィリアムは首を振る。

「それなら、お茶を淹れてこよう」


 日常の雑務など、全くもって不精なはずの主人のねぎらいの申し出に、「それにはおよびません」とウィリアムもようやく以前のようなくつろいだ笑みを見せた。ゆるりとひるがえると、背後のドアを開ける。そして、そこにいた誰か――、おそらくは彼の身の回りの雑用をする従卒に短く指示を言い渡した。背中越しに垣間見えたのは、まだ年若いアラブ人の青年だ。軍人だろうか、とヘンリーは彼の動きから推察する。このウィリアムが祖国に戻ってなお護衛を必要とするほどの状況なのかと、表情には出さなかったが、彼の過酷な日々に思いをはせ、その鮮やかな瞳をわずかに曇らせて。






 部屋の外で従卒からお茶を受け取り、セピア色のソファーにヘンリーと向かい合って腰を据えたウィリアムの報告は、実に淡々と事務的に語られた。

 内容はもちろん、当初聞かされていた王宮の近衛問題だけではない。王族の縁故関係で構築された、アル=マルズーク王家を頂点とする特殊な政治体制を一新するための改革に関するものだ。秘密裏に遂行されたサウード一行のマーシュコート滞在中、本国ではウィリアムが吉野の代理を務めていた。だがその業務も一定の目処がつき、こうしてヘンリーの許へ戻ってきた。吉野の許ではなく――。



「ああ、彼がきみの後を引き継いだってわけだね」


 ヘンリーは、確認するようにウィリアムを見やる。彼、というのは吉野の護衛を務めるアリー・ファイサル・バッティのことだ。マーカスからは、マーシュコートを吉野とともに出立した、と聞いていた。だがこのロンドンで吉野の警護をしているのはルベリーニ配下の者だ。カールトンJr.と遊び回るには、その方がやりやすいから、と本人は屈託なく話していたが。むろん理由はそれだけではなく、何やらまた画策しているのだろう、とヘンリーにしろ想像はしていた。吉野本人に問い質すことはしなかったが、ウィリアムから引継ぎさせるために単身帰国させたのなら頷ける。


「引継ぎというよりも、むしろ私の任務は――」


 ウィリアムは、目許を細めて笑みをこぼす。そもそも彼が吉野に代わり務めていたのは、サウード殿下のTS立体映像の操作と、その操り方の指導だ。そしてその作業の傍ら、サウードの立体映像を操る技術者たちの政治思想を吟味し、忠誠を誓える者たりえるかを見極める。だが、王宮内のアブド元大臣の息のかかった近衛兵の入れ替え等の人員整理、警備体制の一新には、一切かかわっていない。素知らぬ顔で眺めるだけだったと言えるだろう。


「彼はヨシノの護衛を外れ、近々行われる近衛師団長就任式のための帰国です」

「その日には、サウード殿下はお国に戻られるのかな?」

「いいえ。いえ、おそらくは――」

人工知能(A・I)に公務を担わせて、ヨシノはもう、殿下を公の舞台に上げる気はないの?」


 ウィリアムの漆黒の睫毛は、瞳に宿る真実を見つめる主人から隠すように、静かに伏せられる。


「それがヨシノの優しさなの? サウード殿下が負うべきものだろう? 彼が、本当に王座に就く気があるのなら」

「――誰もが、あなたのように在れるわけではありません。それに、この決定はヨシノの一存で決められたことでもありません。王宮の総意なのです」

「誰も思いつきもしなかったからさ。こんな案を出せるのは、あの子しかいないじゃないか。だから誰も異議を言いだせない。手放しで受け入れるしかない。反対する理由も、代替案も提示できないのだから。それで総意だなどと言えるのかな」


 手厳しく批判する主人の言い様に、ウィリアムは毅然と唇を結ぶ。


「それでも――。私も彼に賛同します」

「――しょせん傀儡の王だからか」

「いいえ、そうでないことは、あなた自身がよくご承知のはずです」



 なぜこうまで苛立つのか――。

 ヘンリーにしろ承知している。サウードに自分自身を重ねているのだ。ヘンリー自身が、自分の(スペア)である映像の人工知能(A・I)に自分自身を浸蝕され、己を失いかけているから。いや、もっと以前から――。生れてからこの方どこにいようとも、場の望む傀儡だったのは彼も同じ。そんな彼のもつ無意識の焦燥を、ウィリアムはこうして否定し続けてくれていた。彼こそが、本当のヘンリーの影なのだから――。



「感傷だな。そしてこれは、殿下とアル=マルズーク王家の問題にすぎないのだったね。僕は見届けるだけだ」


 吉野のやりようを。彼がサウードとの契約をどのような形で終わらせるのかを。その後は――。


「慎重に考えなければならないのは、この件が及ぼす波紋じゃない。あの子の今後の身の振り方――、だったね」


 肩の力を抜いて、ふいにくすくすと笑みをこぼしたヘンリーに、ウィリアムは神妙な瞳をもちあげ、ただ「はい」と頷いた。






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