導線4
「アスカさん、アスカさん!」
うららかな陽気に誘われ、テラスから下りてガーデンルームの一つで休憩していた飛鳥を、アレンの声が呼んでいる。「ここだよ!」飛鳥は立ちあがり思い切り腕を伸ばして振った。高い生垣に囲まれてはいるが、テラスからは見えるだろう。
「アスカさん、この人がヨシノの商談相手ですか?」
軽い足音とともに緑と白の花群の壁の間から飛びこんできたアレンが、珍しく声を荒げて尋ねている。そのしなやかな指を揃えた手のひらが、すいっと何かを差しだすように飛鳥に向かって伸ばされる。
飛鳥は一瞬眩しそうに目を眇め、ふいうちの問いに驚いた様子で「え?」と小首を傾げる。
新聞サイズに引き延ばされたTS画面がアレンとの間を仕切るように浮いていた。そこにある取りたてて特徴のない男の顔写真をまじまじと見つめ、ついで記事の見出しに目を走らせる。その名前の持つインパクトに反して本人の印象は薄く、飛鳥は自分の記憶に自信がなかったのだ。道ですれ違ってもおそらく彼だと気づかないに違いない。
だがここには「リック・カールトンJr.率いるベンチャー企業、英国に上陸」と書かれている。彼がアレンの尋ねる当人で間違いない。
首肯してから記事にざっと目を通した飛鳥は、ほどなく小さなため息をついていた。
「リック・カールトンの子ども、か……。彼はミドルネームのロバートを名乗っているのに、こういう書かれ方をするってなんだか可哀想だな」
「可哀想――?」
書かれている内容ではなく、飛鳥がロバートの名前表記について言及したことが、アレンには意外だった。彼自身、同じ様に祖父の孫、兄の弟として認識され、表記されることに馴れていたから、そこに着目することがなかったのだ。当然ではないのか、とこの一言が引っかかった。画面から目をそらし、ついこの場を忘れて思い耽る。
「でも、僕は誇らしさを――、」
尊敬し、憧れている兄と同じ血で繋がっている。それは間違いなく誇らしく、彼の支柱となっていた想いなのだ。だが、逆に忌まわしい血脈であることを意識するときは……。
呟いた想いとは裏腹の、同時に過った脳裏に浮かべるのも厭わしい母の面影が、彼の瞳を曇らせていた。本人の意志の及ばぬところでせめぎ合うこんな両極端な想いに、アレンはいつも圧迫されてしまうのだ。
言い淀み、黙り込んでしまった彼を、飛鳥は不思議そうにうかがっていた。腑に落ちない様子で、じっと彼を見つめて。自分の言葉の何が彼を落ち込ませてしまったのかが判らなかったのだ。言葉が足りなかった。だから誤解を招いたのかもしれない、と飛鳥は考えながら、もどかしげに言葉を継いだ。
「どんなに成功して世界的に評価されている父親がいるからって、これは新事業を立ち上げてこれからっていうロバートの記事だろ。それを、“リックの息子”が、じゃあ、まるで父親の手柄みたいじゃないか。これってずいぶん失礼だと思うけどな」
「そう、でしょうか?」
たかが名前表記ではないか――。ファーストネームで書くか、ミドルネームで書くかにそれほどの意味があるのだろうか、アレンを悩ませていたこととは全く違う観点の飛鳥の憤りに、むしろ彼は呆気に取られて聞き入っている。
「そうだよ! だからだろ? ヘンリーが、きみは実弟だってことを公表しなかったのって。きみの勝ち得た評価は、彼の弟だからじゃない。きみ自身に向けられたものだって、はっきりさせるためもあったと思うんだ」
「兄が、そんな――」
ヘンリーの名を出されたとたん、アレンのなかではもう、ロバートなど吹っ飛んでいる。目まぐるしく当時の記憶を探り、兄の思惑を、その頃の自分の心情を顧みる。ポスターのモデルにと声をかけてくれたのはデヴィッドで、兄はかかわっていなかった。けれどこうして言われてみると、それがデヴィッドの一存でなされていたはずがない。冷静に考えれば解りそうなものを、アレンは会社の顔ともいえるイメージ・キャラクターを任されることの重大さを鑑みることもなく、兄は自分を恥じている、弟だと認められていないからだ、と自己中心的な憐憫に囚われるばかりだったのだ。
「吉野だって、彼がリック・カールトンの息子だから共同事業に乗りだすわけじゃないだろ? 彼のこと、一緒に何かしたいって思えるくらいに面白い奴って言ってたんだ」
飛鳥は再び、明るい日差しの下でわずかに透けて見える画面に目を戻した。
だが、この記事のなかに吉野の名はない。ヘンリーには触れているが、あくまでロバートの尊敬する英国の経済人としてで、個人的な関りがあるような言及はない。それが飛鳥の気にかかったのではあるが――。
「どんな先入観も付加価値もない真っ新なところから、スタートさせてあげたいじゃないか」
飛鳥は、独り言のように呟いた。それはアレンにというよりも、ロバートに、そして彼とともにいるはずの吉野に向けた贐の言葉だったのかもしれない。
アレンは納得したように、「ええ」と相槌をうった。飛鳥の言わんとする意味に、ふわりと頬をほころばせて。
ここにいる飛鳥と同じ。
吉野も、アレンを誰かの付属物のように扱うことはなかった。その背景ではなく、目の前にいる自分を見てくれていた。
アレンにしろ、吉野が、そして飛鳥が持つカールトンへの捨て去ることなどできないに違いない強い感情を知っている。それでも飛鳥は、ロバート自身を評価し信じたいと願っているのだろう。吉野の選んだパートナーとして。
ヘンリーが、彼との間にあった高い垣根を飛び越える翼をアレンにくれたように、ロバートもまた、彼らを過去に縛りつけている想いから解き放ってくれるきっかけになるかもしれない、と――。




