導線3
夜も更けてから帰宅したヘンリーを迎えたのは、階上から聞こえるけたたましい笑い声だった。今夜は珍しく吉野の方が先に戻っているのか、と足取りも軽く声のする部屋へ向かいノックする。
「おかえり」、と弾んだ声が返ってきた。
ドアノブを握ろうとしていた手が躊躇する。そのわずかの間にドアは内側から開かれた。
「おかえり、遅かったねぇ!」
「邪魔してしまったかな?」
入り口に立つデヴィッドに、ヘンリーは戸惑っているような曖昧な笑みを浮かべて尋ねた。だが眼差しは彼を素通りして、部屋のなかの一点を映している。デヴィッドもその視線を追うように室内を振り返った。
「このところ帰りが遅いんだって? サラが心配してるよ。生活が不規則すぎるんじゃないかって」
床にあぐらをかいてパソコンに向かっている飛鳥が、わざと顔をしかめて、継いでくしゃりと微笑んで言った。
「きみたちに心配されるほどの不摂生はしていないよ。きみの方こそ、そこに籠りっきりで根を詰めて、熱を出したんだって? まだ少し頬が赤いようだよ」
「ああ、それはね、わざとなんだ。赤色を少し強く出しているからだよ。温かみがあるようにみえるだろ?」
ヘンリーは飛鳥の周囲をぐるりと見渡す。この背景に覚えがあった。いつか訪れたことのある、砂漠の地のサウードのテント内らしい。深みのある赤を基調にした草花模様の絨毯に飛鳥や吉野、アレンが座している。その頭上の暗闇にぽかり、ぽかりと円形のモザイクランプが、大小、そこかしこに浮かんでいる。幾何学模様に配置された華やかな色彩のガラスが煌めき、暖色に染まった四方の白幕上に透明なとりどりの色飛沫となって揺蕩っている。夢のなかに浮かんでいるようなその空間を、ヘンリーは表情もなくぼんやりと眺めていた。
「きみには、僕たちはまるで目に入らないみたいだな」
いつの間に加えられたのか、ヘンリーが飛鳥の横から彼自身を見あげて声をあげていた。彼の本体は軽く両眉を上げ、ゆっくりと自分の虚像ともいえる、この声の主に視線を据える。
「学習の邪魔をしてはいけないと思ってね」
「はじめまして。お兄様」
「ヘンリーでかまわないよ、よろしく」
立ちあがり居住まいを正してじっと自分を見つめていたアレンに、ヘンリーは右手を差しだした。さらりとその手が握られる。ピリッと電流が走った。
弟が差しだされた手を躊躇なく握り返すことなどあり得ない。たとえそれが兄の手であってもだ。そしてこんなふうに、真っすぐに視線を向けてくることも。意志をもっているかのような強い瞳は、確かにヘンリーの知るアレン本人からはほど遠く、より宗教画のなかに住む天使の眼差しを思わせた。追従する者を導く瞳。大衆が望む像がより強く反映された彼だといえるだろう。
「ヨシノの言う通りだね。きみはあの子じゃない。でも、広告塔としては、きみの方が適していそうだね。僕はこの方向でかまわないよ」
最後の一節は、並んでこのやり取りを眺めていたデヴィッドに向けられたものだ。だがデヴィッドは軽く肩をすくめて、不満そうに首を振った。
「アレン本人も、ヨシノも、それでいいって言うんだけどさぁ、僕はねぇ、迷ってるんだ。ねぇ、アスカちゃん」
「この人工知能は、ロニーの甥っ子の、何ていったっけ、フランスの子、彼の理想像になっちゃってるだろ? イメージも印象も、アレン本人との乖離が大きすぎるよ。広告イメージって割り切るのもなんだか釈然としないっていうか。この彼のイメージがアレンとして定着してしまうかもしれないわけだろ? いくら本人がかまわないって言ってもさ」
もどかしげに顎に手を当てて、飛鳥はアレンを覗きあげている。ヘンリーはそんな彼の惑いには応えずに、再び弟の似姿に視点を据えた。
「あの子が、何て言っているって?」
「彼は、」
「フィリップに彼の学習を頼んだのはアレン自身だよ。自分はこっちの相手で忙しいからって」
「こいつは彼で、俺はこっちかよ!」
アレンとデヴィッドの声が重なる。そのうえ、自分に人差し指を突きつけているデヴィッドの言い様に、吉野までもが唇を尖らせて割り込んできた。
「ほら、おかげでこっちはヨシノらしくなったでしょ!」
ははは、と声をたてて笑いながら、「それは僕がかなり手を加えたからもあるけどね。それでね、」と飛鳥は、パソコン画面をのぞき込む。ヘンリーは目を細め、ふわりとした微笑をみせて言った。
「本人と見紛うようだよ」
「アレンの学習過程なんだけど、」
「まかせる。僕はこれで失敬するよ。まだやり残していることがあるんだ。きみもあまり夜更かししないように。おやすみ、アスカ」
「うん、おやすみ、ヘンリー」
ちらりとヘンリーに向けられた飛鳥の視線は、すぐにパソコン画面に戻っていった。ヘンリーは俯いている彼の旋毛をわずかの間見おろして、やがて静かに踵を返した。
「あ、ちょっと待ってヘンリー!」と、飛鳥の背後から画面を覗きこんでいたデヴィッドが、その後を追った。
「ヘンリー!」
デヴィッドは背後から彼の肩を掴み、ぐいと引いて振り向かせた。
「気に入らないの?」
「べつに。かまわないよ。そう言っただろ」
「満足してるって顔じゃないじゃん」
「それは――、」
ふぅっと息を吐き、ヘンリーは薄く微笑する。
「アスカがいるとは思わなかったからだよ。それにあの部屋にいたなかで、実態を持つのはきみだけだった。アスカ本人だって映像にすぎなくて。それで以前、彼の言っていたことを思いだしたんだ。目の前にいるのに触れることができない、虚像でしかないことの生み出す影響ってものをさ。それにあのアレン――。彼よりも僕の方が、よほど虚像だなって感じたよ。――生を受けてからこの方ずっとね。実感として、思い知らされたのかな」




