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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
751/805

  罠7

 ロバート・カールトンが今晩の会食に指定したのは、ヘンリーのタウンハウスからそう遠くもないメイフェア地区にある寿司屋だった。韓国や中国系経営者の多いロンドンの日本食レストランのなかで、ここはれっきとした日本人個人経営の店だという。だが予約時間は20時半と吉野にしてみれば遅すぎる。おそらくその後、パブだかナイトクラブだかにつき合わされ、帰りは朝になるかもしれない。ヘンリーがロンドンにいると告げれば家に招待しろとうるさいだろうな、などと空想しながら吉野は夜道を急いでいた。


 指定時間ちょうどに到着すると、ロバートはすでに店の前で待っていた。「ヨシノ!」と大きく手を振っている。大柄なチェックのジャケットにブルージーンズ、素足に革靴のいつもの服装では、この国の気候は寒かったのだろう。今日の彼は、そのうえにダウンコートを羽織っていた。

 その背後に近隣の店となんら変わらないジョージアン様式の白壁の店が連なっている。ロバートの頭上に、アルファベットで店名が綴られた切り文字看板が見える。彼が立っていなければ、和食店だとは判らず見過ごしてしまったかもしれない。吉野はロバートよりもその簡素な店構えにとっくりと見いる。


「時間通りに来てくれて嬉しいよ! この店は時間にうるさくてね、遅刻すると予約を取り消されるんだ。きみが間に合わないんじゃないか、とひやひやしてたんだ!」


 さっそく、彼特有のおしゃべりが始まった。吉野は「ああ」とか「そうか」とか言葉少なに応えながら、彼に続いてドアをくぐる。


 モダンで清潔な印象の内装だが、格別高級感があるわけでもない。奥に伸びるカウンター席は日本の寿司屋と大差ないようだ。カウンターのあるような寿司屋に家族で行くことはなかったが、幼いころ彼の面倒を見ていてくれたギャンブルの師匠は、時折、家からそう遠くないこんな店へ連れていってくれたものだ。懐かしい面影を思いだし、ふっと吉野の頬が緩んでいた。


 だが応対する店員はカウンターではなく、個室へ彼らを(いざな)った。



「きみのために個室を取ったんだ。重要な商談の場だものね。それにきみは食べものには煩い方だろう? 僕もなんだよ。僕たちはこういう面でもばっちり気が合うよね。やっぱり食の好みは多方面で嗜好が現れるというかさぁ、」

「別に俺、寿司が好きってわけじゃないよ。日本人だからって、毎日寿司や天ぷら食ってるわけでもないしさ」

 吉野は笑って否定する。だがロバートは「そうなのかい! 僕は毎日スシでもいいけどな。日本通だからね!」と、彼の言い分を気にするでもない。




 おまかせのコースは汁椀から始まる。日本から空輸、ではなく現地のロブスターを使用している。良いものは良い、とこの国の素材を取り入れて自国文化の華である食の世界を昇華していく柔軟さが、この店が評価され愛されている理由なんだ、と自慢げにとうとうと語っているのは、もちろん店の人間ではなくロバートだ。そのうんちくはコースが進んでも留まることがない。

 カリフォルニアに住む彼が、ここの馴染だとでも言いたいのだろうか。それよりもグルメサイトのレヴューを丸暗記してきたとしか思えない。こんな話を聞かせるために、わざわざ自分を呼びつけて馬鹿高い飯食わせてるのか、と吉野は上ずった彼の声を右から左へと流していた。


 次々と運ばれてくる脂ののったマグロやサーモンにトリュフやキャビアを合わせた和洋高級食材折衷は、吉野の好みではなかった。いかにもこの男の好きそうな脂ぎった味だと、黙々と口に運びながら、吉野は一人納得している。

 食の好みにそれ以外の嗜好も見えるという意見には賛成だな、と口許をほころばせて。



「なんだかいつもよりもきみ、しゃべらないけれど、口に合わなかったのかな?」

「いや、旨いよ」

「そうだろ! きみにこれほどの価値が判らないはずがないよね! きみはどのネタが好きだい! ここはやっぱり大トロだろ! このまったりとした、口のなかでとろける味わい――」

「そうだな、玉子かな。玉子焼きが最高」

「やっぱりそうなのか! 寿司屋の善し悪しは卵焼きで見分けるんだって、本で読んだよ! 日本人の友人も同じことを言ってる。そいつも通な奴でね、」

「で、重要な商談はどうするんだよ? そのために個室までとったんだろ? もうコース食い終わっちまったぞ」


 真顔で()()()を啜っている吉野を、ロバートはきょとんと見つめている。


「いやぁ、僕もね、どうしようかなって悩んで、悩んで、せっかくのスシの味もよく判らなかったよ。というのもね、彼抜きでこのまま話を進めて、彼がね、気分を害さないかなって……。彼にしろ、残念に思っていると思うとね。ああ、ここで一緒に会食したかったなぁ!」

「はぁ? 彼って、ヘンリーのことか?」

「ほかにいないだろ?」


 吉野はついっと頭を引いて、向かいに座るロバートを見おろすように眺めた。


 のらりくらりと会話を引き延ばすのは、契約内容に不満でもあるのか、より強欲な条件を突きつけてくるつもりなのか、そんな真っ当な駆け引きを仕掛けてくる相手ならまだ考えようがあるものの、底の底まで子供じみたこの男の口からは、時おり吉野には思いがけないことが飛びだしてくる。


 だがヘンリーは今、体調を崩しているなどと口を滑らせて、うるさく詮索されるのも困る。吉野は残念そうに肩をすくめてみせ、無難に話を合わせておくに留めた。


「ヘンリーは忙しすぎるからな。あいつも今日来られなかったことを残念がってたよ。吉報を待ってる、お前によろしく伝えてくれって言われてたんだ」


 そんな賛辞というわけでもない挨拶程度の伝言に、ロバート・カールトンはそれは誇らしげな、心から嬉しそうな笑みを満面に浮かべたのだった。






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