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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
746/805

  罠2

 アレンは朝が弱い。それでもエリオットの寮生活で毎日が規則正しく送られていたときは、嫌々ながらも起きていた。ケンブリッジに移り自由度の高い大学生になってからも、その生活リズムを崩さないようにと心がけている。

 だが今回の騒動での心労からか、睡眠状態も体調もなかなか以前のようにはいかず、毎度、寝起きの怠さには抗えない。それでも、ここマーシュコートに滞在するようになってからの彼は、昼夜を問わず働いている飛鳥たちに軽蔑されることのないようにと、できうる限り早起きしての参加を努めている。



 そんな気概にもかかわらず、この朝、彼が自室を出たのは遅かった。だから、一人でコンサバトリーで朝食をとることになったのも仕方ない。

 雨が降っていた。軽い雨音がトントンとリズミカルに丸天井のガラスに踊っている。優しい音だ。この静寂の音楽に心を和ませ、アレンはいつもよりもゆっくりと時間をかけて朝食を味わった。彼はそれを後から後悔することになる。けれど、彼が朝食を食べずに直接図書室へ向かったとしても、その後の落胆は避けられなかっただろう。



 長い廊下を渡って図書室のドアをノックする。返事がないのを待って、風圧でTSの白い幕を揺らすことのないようにそっと開ける。ここでは返事のないことが、許可なのだ。


「おはよう」と幕のなかを覗きこむと、そこにはいつも通り吉野とサウードがいて、にこやかに「おはよう」と応えてくれる。けれどアレンは、え、と小首を傾げる。緋色の絨毯にあぐらをかいている()()は、吉野ではない。人工知能を連動させた彼の映像だ。吉野は、彼が「おはよう」と言うと、いつも「おう」と応えるのだから。

 本物の吉野はどこにいるのだろう、とアレンは四方をぐるりと見回す。背の高い円柱、飾細工の衝立、濃い緑の繁る植物の陰――。現実には、ここはそんな広い空間ではない。離れた場所にいるはずがない。錯覚の作りだした背景なのだから。

 ため息を一つついて、彼は問いかけるように、この映像(よしの)の横で寛いでいるサウードに視線を戻した。吉野とは逆に、彼にはこのサウードは映像ではなく本物の彼ではないかと思えたのだ。根拠もなにもなかったが。


「きみには区別がつくんだね。僕はあやうく騙されるところだった。こんなにヨシノらしくなっているなんて、思ってもみなかったよ」


 優雅な仕草でアレンに座るように促しながら、サウードは鷹揚に笑って言った。


「それで、ヨシノは?」

 アレンは嫌な予感に胸をざわつかせていた。いつもなら、ここに来ることのないサウードがいて、吉野がいないなんて――。案の定、穏やかな笑みを貼りつかせているのに、どこか感情の感じられないこの友人は、「今朝早く、ロンドンに発ったよ」と、何でもないことのように告げた。「1週間ほど、あるいはもっと早く戻るそうだよ」


 危険だから、ここに隠れているのではなかったのか――。

 アレンはその瞬間、自分でも驚くほどの苛立ちを感じていた。これまで何度も吉野のうえに降りかかってきた、命を脅かすような出来事の数々がフラッシュバックしていた。


「こんなときに、なんでそんな?」

「さぁ、僕は聴いていない。私用だろう」

「聴いてない、って――」


 呆れて声を荒げる。アレンにしても、詳しく説明されることはなくても、彼らが、スキャンダルの最中にある彼につきあって、ここに滞在しているのではないことくらい判っているつもりだ。彼らがここにいるのは、フィリップの実家に匿われていた時と同じく、命を左右されるほどのやむにやまれぬ事情があるから。だからこそサウードは、おそらく本人も思いがけなく、アレンに本音を零してしまったのではなかったのか。


 それがわずかな時間を置いてしまえば、アレンには何も知らさぬまま、また、吉野の姿はかき消えている。理由を問うことも、追いかけることもかなわぬまま――。だがそれよりも、サウードが平然とここに残っていることが、彼にはあまりにもやりきれなかった。


 アレンはもう何も言わずに立ちあがり、この砂漠の王宮を模した空間の出口をはぐる。


 白い幕の裏にいるはずの飛鳥に尋ねようと思ったのだ。ところがそこには彼も、サラもいなかった。今度こそわけがわからず、アレンは立ちすくんでしまった。


「ヨシノの兄なら部屋だ。この家のお嬢さんもそこにいる」


 いつの間にか傍らに、イスハークがぬっと立っていた。アレンは、「わっ!」と声をあげてしまう。


 動転したまま彼を凝視するだけのアレンに、「熱を出して寝込んでいるそうだ」とイスハークは無表情のまま、ついでのようにつけ足した。 

「アスカさんが?」


 いったい何が起こっているのだ、と微動だできないまま、アレンはパニックになりかけていた。だがイスハークはいたって冷静だ。


「連日の疲れがでたのだろう、と本人は言っている。当然だな、ここに来てから、彼はほとんど寝ていなかった」

「お見舞いにうかがってみるといいよ。今なら、起きておられるようだよ。こちらの様子はどうか、と訊いておられる。滞りなく、ときみからもお伝えしてくれる?」



 幕の内側から出てきたサウードが、手にしたTSネクストをアレンに示しながら告げた。アレンは、ただ頷き、足早に彼らから離れこの場をあとにした。


 


 

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