罠
ケンブリッジの地にアーネストがもたらした吉報は、当然、ここマーシュコートにいる吉野のもとにも届いている。だが、彼らが閉ざされたティールームで内密に語り合っていたように、ここでもまた、この話題は彼とサウードの間でしか交わされることはなかった。もちろん、ニュース上で知ったライバル会社の一事件として、飛鳥やサラも口にしなかったわけではないが、吉野がこの件の影の当事者であるなど思いもよらないことだろう。
吉野はサウードの私室で、一人掛けのソファーに片膝を立ててじっと宙を睨んでいる。向かいに座るサウードは、とくに彼のことを気にするでもなく、静かにお茶を啜っている。
彼にしろ、届いたばかりのこのニュースをきっかけに、吉野が次の手を打ってでるであろうことは予測している。だが彼がどんな行動にでるかは考えない。考えてみたところで、彼が吉野の思考に届くことはない。吉野の方から告げてくれるのを、こうしてじっと待つしかないと承知しているのだ。
それにサウードは、こうした沈黙の時間が決して嫌いではなかった。それは吉野が望み、また彼自身が望んでいる世界を創造している時間なのだから。その身は吉野の描く世界を現実に移す媒体でしかなくても、その思考の内側で、我ひとりではない、我々の夢を体現している、と実感できる。その間彼は、いつか一人取り残される恐怖を忘れることができたのだ。
だから彼は弛緩してその身をソファーに預け、頭を空っぽにし、お茶を片手に、ゆるりと自分にあてがわれたこの部屋を見渡していたのだ。
柘榴色の絨毯が敷かれ、全体を赤系統の配色でまとめられた客室は、いささか重苦しくはあるが温かみがあり、サウードの好みにあっている。英国の冬の寒さを嫌う自分への、吉野の気遣いなのだろう。
「サウード」
ようやく長い沈黙を破って、彼からは見えない画面を眺めていた吉野が視線を彼に戻した。サウードは鷹揚な微笑みでもって応える。
「俺、しばらくロンドンに戻る。アリーを連れていく」
「滞在はどこに?」
「そうだな、ナイツブリッジのヘンリーん家に泊まるよ。数日、長くかかっても1週間もいない。すぐ帰ってくる」
「かまわないよ」
「それから――、まぁ、戻ってきたらまた話すよ。大したことでもないしさ」
「わかった」
「なんか気になることがあったら、俺のAI相手に喋っててくれ。向こうでチェックする。それにアレ、もっとお前の相手ができるように教育しなきゃならないしさ」
冗談めかして笑う吉野に、サウードもふっと笑みを刷いて応えた。
「僕には、アレがきみだとは思えないからね。愚痴をこぼす気にもならないよ」
「愚痴じゃなくたってさ、なんかあるだろ! こうしてるみたいにさ、たわいのない話でいいんだ」
唇に笑みを湛えたまま、サウードは視線を手許へと移していた。ほんのわずかな彼の不在すら恐れていることを、早々に吉野に見透かされてしまっているような気がして、堂々とおもてをあげていられなかったのだ。
吉野はこのロンドン行きの要件を口にしなかった。そして、滞在もサウードの別宅は使わないということは、彼の側近としての問題ではないのだろう。私用ということだ。あるいは、今回の裁判に関わることなのかもしれない。
どうであれ、これまでサウードは、自分が吉野の私事を制限したことはない、と自負している。それ以上に彼が、サウードや彼の国のために彼自身を犠牲にすることを憂いてきた。だが、ここへ移り住んでからというもの、吉野のほんのわずかな不在さえもが、これまで彼とともに歩んできた力強い時の終わりを告げる予鈴のように思えて、彼を根底から揺るがすのだ。
身を隠さねばならない状況は、決して初めてのことではない。命が危険に晒されることも。だが、吉野をひとり砂漠に残し、ルベリーニ一族に匿われていたときでさえ、これほどの不安に襲われたことはなかったのだ。
サウードは、野性的ともいえる統治者の勘でもって理解していたのかもしれない。吉野が、彼をこの地から彼本来の帰るべき場所へと連れだすとき、そこにあるのは玉座以外考えられないということを。その晴れやかな場面は、吉野との決別を、そしてまた、彼の父王との決別をも意味することになるだろう。サウードは、このどちらをもいまだ受け入れることができなかったのだ。
こんな、圧し潰されそうな不安に、吉野は気づいてくれているだろうか――。
ようやく一息ついて、思いだしたように皿に盛られたスコーンを頬ばりだした彼を、サウードはゆるく笑みを湛えて眺める。
無意味な問いだ。彼のそんな注意はいつだってアレン一人に向けられていることを、サウードは誰よりもよく知っている。
「いつ、出発する?」
「明日にでも。ヘンリーにヘリを手配してもらうよ」
吉野は頬を動かしながら、楽しげに瞳を輝かせて答えた。




