暗躍6
分厚いカーテンを払いガラス戸を開けて、アレンは一息つくためにテラスへ出た。いつの間にか日が落ちかかっている。時間の止まったような閉ざされた空間の中にいると、今がいつで、ここがどこなのかすら判らなくなる。そんな境界のない曖昧さから現実に立ち返るために、意識してこうして抜け出す必要があるのだ。
わずか数日間、仮の実験室として使われているこの図書室に籠っていただけで、意識がふわふわとして足下すら覚束なくなっている。こんな毎日を当たり前に送っている飛鳥やサラは、だからこんなにも自由で日常に囚らわれない発想ができるのだろうか。などと、自分とのあまりの差に吐息を漏らし、気温のぐっと下がってきたゆるやかな風にあたりながら、夕闇に輪郭を消していく庭に視線を漂わせる。
ここにいれば何も考えなくてすむ。吉野や飛鳥がいつもそばにいてくれ、夢よりもよほど夢のような日々を過ごしている。けれど、この生活は逃避でしかないことも、彼は重々承知している。
以前ケンブリッジにケネスが訪ねてくれたときにした約束を、アレンは果たさなければならない。そのためにはいつまでもここに隠れてはいられない。もっともケネス本人は、アレンの発案には反対しているのだが――。
「そんな薄着でいるには、ここは冷えすぎるようだよ」
ぼんやりと動かないアレンの背中に声をかけたのはサウードだ。ゆっくりと振り返ったアレンは、欄干にもたれたまま軽く頷く。
「熱を冷ましに出てきたところなんだ。またすぐに戻るよ。きみは?」
すぐに、と言いながらアレンはその場を動かない。サウードは足音も立てずにすっと彼の横に歩み寄り、穏やかな微笑を向ける。
「窓からきみの姿が見えたから来ただけ。そこには行かないよ。僕には用のない場所だからね」
用のない――。
人工知能を搭載した吉野の映像の学習につき合うことに、サウードは興味がないのだろうか、とアレンは訝しい想いで彼の横顔を見やる。何を考えているのかは判らない。けれどとても静かな面持ちで、彼は閉ざされたカーテンで遮られている図書室を見ていた。
「ここにいる彼は、とても幸せそうだね」
まるでその深緑のカーテンの向こうを見透かしているかのように、サウードは目を細めて呟いた。どこか淋しげな口調だった。
確かにこの屋敷に来てからの吉野は、アレンの目からみても溌剌としている。アレンにはいまだに把握しきれないサウードの国の情勢や、米国にいるセドリックの問題など、あれきりおくびにも出さずに飛鳥とTSの開発に取り組んでいる。
「本当に好きなことをしてるように見えるよ」と、サウードはたたみかけるようにつけ足す。
「きみの国にいるときのヨシノも、僕たちには、好きなことをしているように見えていたよ」
そう言っていたのだ。フレデリックも、クリスも。もちろんアレン自身もそう感じていた。だから、どれほど心配で圧し潰されそうであっても邪魔してはならないのだ、と自分自身に言い聞かせてきたのだ。
「好きなこと、ではないと思う。彼を僕に結びつけているのは一枚の紙きれ、契約書にすぎない。それももうじき期限切れだ」
その自嘲的な言いぶりに、アレンは欄干から身を起こし真っすぐに立ってサウードと向き合った。
「その契約書にサインしたのだって、彼の意志だろ? 彼は自分のしたいことをする。そうじゃない、サウード?」
僕たちは知っているはずだ。
誰よりも吉野の近くにいたくせに――、言葉には出さなかったけれど思いを込めて、アレンはサウードを睨めつけた。けれど彼はその視線を受け止めることなく瞼を伏せた。
「アレン、僕は怖いんだ。彼なしで、僕はこの地面に立つことができるのだろうか」
再びアレンに向けられた漆黒の宝石の瞳は、底知れぬ闇を湛えていた。自分自身が長年抱えてきたのと同じ不安を、アレンはこの高貴な、完璧な友人のなかに見いだしていた。その思いもよらぬ衝撃で、アレンには彼を慰め鼓舞する言葉なんてかけらも思いつくことができなかった。どうしようもなく虚ろでよるべないサウードを、いつの日にか成り代わりたいとまで彼を駆りたてていた友人を、アレンはどうしようもないまま、ふわりと抱きしめていた。
「きみは――、」
「王になんて、なりたくはない」
空耳かと思えるほどの小声で呟かれたのは、彼の本心なのだろうか。
「サウード! ――何やってんだ、お前ら!」
吉野の声に、サウードはびくりと身体を離した。一瞬のうちにアレンの肩を抱いて背筋を伸ばしている。
「彼がふらついていたようだからね、部屋まで送ってくる」
「ああ、頼んだ。アレン、お前、薄着でふらふら外に出るなよ。春だっていっても、まだまだ冷えるんだぞ」
「平気だよ!」
ふくれっ面で応えながら、今のはなんだったのだろう、とアレンはすぐ横にあるサウードの横顔を盗み見ていた。吉野に向けられる彼の瞳は強い光を湛えたアレンのよく知るサウードのもの。吉野には知られたくないのだろうか、とそんな考えが脳裏をよぎる。
彼の望む王になるために、サウードはここにいるのだろうか。
こうして吉野のいない時間を耐えているのだろうか。
彼の本当にしたいことを自分は妨げているのではないか、と心の内に不安と葛藤を抱えながら。
サウードは吉野の認めたパートナーだ。羨望し続けていた位置に立つ完璧な友人が初めて自分の前で零れ落とした弱音を、アレンはどう受け取ってよいものか判らなかった。
「くしゅん! くしゅん!」
頭のなかで目まぐるしく動いている思考とは裏腹に、身体は身ぶるいして、くしゃみを連発している。
「ほらみろ!」
アレンの視線の先で、吉野は笑って、さっさと行けとばかりに手のひらをひらひら振っていた。




