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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
736/805

  萌芽8 

 今さら何も知らなかった、などと吉野に話す訳にもいかず、飛鳥は固い表情のまま「アレンの様子を見てくるよ」と立ちあがった。吉野も、こんなときには自分よりも飛鳥の方がよほどアレンの心を落ち着けてくれるだろうと、「頼んだぞ」と言葉少なに兄を見送る。

「夕食は遅れるかもしれない。あ、それよりもアレンと一緒に食べる。軽いものを。マーカスさんにそう伝えておいて」と、飛鳥は部屋を出しなに思いついたように言い添えた。




 飛鳥にとって、セドリック・ブラッドリーは画面の中でしか知らない相手だ。初めは吐き気をもよおすような携帯画像の中で。まだ幼かったアレンを恥ずかしめるその画像を探しだし消すために、飛鳥は承知の上で法を犯した。あの時のヘンリーの反応は、アレンにも、あの男に対してもまるで他人事のような冷淡なものだった。愛称で呼んでいたにもかかわらず――。後からアーネストに聴いた話では、彼らにとってセドリックは幼馴染で、親同士の確執のあったらしいラザフォード兄弟とは裏腹に、ヘンリーは彼の実家にシーズンごとに招待されるほどに、親しくしていたそうだ。その交友関係は、ヘンリーが彼に何も告げずにいきなり転校したことであっけなく終わった。

 こうして吉野の話と照らし合わせてみると、エリオットでのヘンリーは、その事実を知りしがらみを断ち切りたかったのかもしれない。親友の死や、父親の病、他にも様々な要因も重なっていたのだろう。けれど、残されたセドリックにはヘンリーのその行為が、自分へのあまりにも冷淡な仕打ちに思えたのだろう。

 ヘンリーと入れ替わりにやってきたアレンの上に、憎悪に転嫁された哀しみをぶつけずにはいられなかったほどに。


 ヘンリーの弟妹たちは、それぞれが皆、片親が違うなどと――。


 彼の複雑な家庭環境は、飛鳥の理解の範疇を超えている。だが、吉野はもっと以前から知っていたらしい。だからこそ吉野はアレンに何くれとかまうのだろう。彼もまた、自分と同じように落ち着いた家庭という確固たる地盤をもたない子だから。守ってやりたい、と思わずにはいられないのだ。

 そして、それは自分も同じだ、と飛鳥はアレンの部屋の前で深呼吸し、気を引き締めてからドアをノックした。





 ダイニングルームでの夕食は、特にアレンの話題に触れることもなく、吉野は主にサラとこれから取りかかる人工知能について技術的な議論を交わし、ときおりサウードに説明口調で話したうえで、意向を尋ねた。フィリップはアレンが食事には出てこないと聞くと、「自分も部屋で」と踵を返しこの場から早々に退出していた。

 比較的ゆっくりとした食事も終わりに差しかかる頃、飛鳥がアレンを伴ってやってきた。「体調は良くなったのか?」という吉野の問いに、顔色こそ蒼褪めてはいるものの、アレンは微笑んで、かなり良くなった旨を伝えた。


 アレンと飛鳥は、食事は部屋で済ませたけれど、食後のお茶くらいは一緒に取りたい、と部屋から出てきたのだという。

「せっかくこうしてこの屋敷に招いて頂けたのに、引きこもってなんていられなくて」

「だろうな。ならお茶は音楽室にするか? リチャードのピアノだの、ヘンリーのヴァイオリンだの、見たいだろ?」

 吉野は、先ほどまでの兄やサウードとの会話などおくびにも感じさせない、気楽な物言いで提案した。もちろん、アレンに異存のあるはずがない。

 それでは、とサウードやイスハークが席を立ったとき、サラだけはどうしたらいいものかと内心思案に暮れていた。


「図書室にいるから」

「了解」


 告げられた呟きに吉野は簡潔に応じ、ガヤガヤと賑やかに喋りながらダイニングを出ていった。と同時に、しんと静まり返った食卓をサラは無表情に眺め、まだ食べ終えていないポットパイを片づけるためにスプーンを握り直した。



 しばらくして聞こえたカチャリとドアの開く音にも、サラは特に反応することもなかった。マーカスがメアリーにサラのお茶を頼んでくれたのだろう、とそれくらいにしか思わなかったのだ。だから、「サラ」と呼ばれて初めて、びくりと飛びあがるように振り向いた。


「僕も図書室でいただくから、お茶につき合ってくれる?」

 飛鳥がいつの間にか、今日一日空いていた彼の席に座って微笑んでいた。

「あいつは、吉野はあれでもきみに気を遣っているんだよ。だから、あいつの失礼な態度を気にしないでやって」

「アスカは、聴いたのね」

「うん。あいつはきみが不快な思いをするだろうから、きみとの間であの話題は避けたいのだと思う。でも口にしないだけで、きみはもう知っているんだろ、フェイラー家の縁談のこと」

 サラは取り立てて表情を変えることもなく、頷いた。

「明日には発表されるわ。ヘンリーは、どうせ情勢が変わればすぐに破談にするのだから、好きにさせておけばいい、って言ってるの」

「ヘンリーが? ――彼ら、本当に」

「ヘンリーに聴いたの。遺伝子鑑定をしたのよ。みんな知ってるって言ってた。アレンも、もちろん本人たちも。だから彼女は、わざわざ彼に逢うためだけにこの国にまで来たのだ、って」

 サラは淡々と、ほとんど義務的ともいえる感情のこもらない口調で応えた。

「それに――」

「それに?」

「この婚約には、もう一つ大事な意味があるって」

「意味?」

「本当はアレンのためじゃない。ロバート・カールトンを切り捨てるためなんだろう、って」


 飛鳥は押し黙り、しばらく躊躇ったすえに覚悟を決めてサラを見据えた。


「その話、ヘンリーがきみに直接話したの? それともまさか――」


 サラは悪びれる様子もなく、真っ直ぐに飛鳥を見つめ返した。


「ハッキングしたの。ヘンリーとアーネストの会話を。ヨシノのやり方を真似て」


 飛鳥はぎゅっと唇を結んだまま、答えなかった。サラは間を置いて、再び軽く持ったままだったスプーンを握り直し、冷めかけたポットパイを掬い口に運んだ。





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