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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
735/805

  萌芽7 

 飛鳥が陸路でマーシュコートの屋敷に辿り着いた頃には、日はすでにとっぷりと暮れていた。玄関で執事のマーカスに迎えられ、かいつまんで現状を聞いた後、まずは到着の旨を伝えるためにサラのいる図書室へと向かう。


 ドアを開けるなり、その反動でゆらりと揺れた白いカーテンに視界を遮られる。

 一瞬戸惑い、ああ、と飛鳥は納得し、一歩後退りしてじっくりと眺める。向かいの壁からこちらの本棚装飾の円柱(コラム)にロープが張られ、布が吊るされているのだ。その柔らかな布をめくり避ける。だが、四方に区切られた空間の中には何もない。飛鳥はさらに布をめくり、モニター画面の並ぶ壁面に向かって顔を覗かせた。


「サラ」


 思った通りそこにいたサラから返事はなかった。傍まで歩み寄るとそれも合点がいく。頬杖をついたまま彼女は眠っていたのだ。


「サラ、」そっと肩に触れると、とたんにびくりと跳ねあがる。仰天してぱちりと持ちあげられた濃い睫毛の下の瞳は、怯えたように見開かれている。飛鳥はサラのそんな反応に逆に驚いて、ドキドキと脈打つ心臓の音に気づかれまいと無理に唇を引きあげて笑みを作った。


「ごめん、寝てるかと思った」


 飛鳥、と、声にはださずに呟いたサラの瞳から、ゆっくりと緊張が解かれていく。


「――なんだか大変なことになってるみたい。ヨシノは準備だけマーカスにさせて戻ってこないの。そっちを優先しなきゃいけないからって」


 起き抜けの反応とは裏腹な淡々とした彼女の口ぶりでは、どの程度の「大変」なのか飛鳥には今ひとつぴんとこない。軽く首を傾げていると、サラは「ヨシノに直接訊いて。私も詳しくは聴いてないから」と肩をすくめた。

 それなら、と飛鳥はこの場を離れるついでにサラをお茶に誘った。退屈もあったのかもしれないが、あんなふうに寝こけていたのは、何か集中していた作業を終えて、ぷつんと糸が切れたからだと察したからだ。飛鳥と彼女は似ているのだ。そんな根の詰め方が。息をぬくのが下手なところも。


 だからヘンリーが過保護になるのだ、と内心苦笑しながら、「あのカーテン、わざわざアレンの部屋からもってきたんだ? 先に言ってくれれば別のものを用意しておいたのに」と話題を振ると、サラは嬉しそうに顔を輝かせ、この新型のTSで実験予定の吉野の取り組みについて堰を切ったように話し始めた。





 居間へ続くドアを開けてみたが、誰もいない。幾度か訪れたことがあるとはいえ、ケンブリッジのヘンリーの館に比べて、屋敷の規模も部屋数も格段に優っているこの屋敷で、吉野のいる場所を見つけるのは至難の業だ。「かくれんぼしたら、永久に見つけてもらえなくなりそうだね」などと笑いながら、飛鳥は手っ取り早く携帯を鳴らした。


「うん、分かった。すぐ行くよ」

 応えながら、飛鳥はちらりとサラを見た。サラは解っている、というふうに頷いて「私は部屋に戻ってる。疲れたから」と素早く呟いた。

 自分はどうせ蚊帳の外である。それくらいのことは心得ている。これまでだって、ずっとそうだったのだから。だからあそこで、モニターの前でふて寝していたのだ。その事実を意識の上にあげないために。


 だがそんな彼女の内心の疼きに気づくこともない飛鳥が、ほっとしたように頷くと、サラは「でも、じきに夕食の時間だからそれまでに終わらせて。一人で食べるのは嫌なの」と、思いだしたように付け加えた。

「うん。みんなにもそう伝えておく」

 飛鳥も、当然とばかりに頷く。




 サラと分かれ、飛鳥は一人音楽室へ向かった。さすがにこの部屋に吉野がいるとは、想像だにしなかった。アレンがピアノでも弾いているのだろうか、とも浮かんだけれど、マーカスは、彼はヘリ酔いで体調を崩して休んでいると言っていた。彼も自分と同じように三半規管が弱いのは解っていたのに。それ以上に、人目に煩わされない移動の方が安心だなんて。彼のせいではないのに、彼の上にばかり理不尽な負担が圧し掛かる。この現状が一日でも早くなんとかなることを、飛鳥は願わずにはいられなかった。


 音楽室のドアを軽くノックする。傍に控えていたのか、間髪入れずに開けてくれたのはサウードの従者だ。飛鳥が部屋に入ると、正面のソファーにいた眉間に眉を寄せた気難しい顔の弟と、その傍らのいつもと変わらず何を考えているのかよく判らない殿下がまず目に飛び込んできた。


「吉野、何があったんだって?」

「ああ――」


 兄を見あげた弟は、いつものように相好を崩したりしない。渋い顔のままだ。飛鳥はますます訝しく思いながら傍らのサウードに視線を移した。サウードも、飛鳥と同じく言葉を濁して説明しようとしない吉野を訝しく思っているようだ。


「あいつは、サラは一緒じゃないのか?」

「夕食まで部屋で休むって。きみたちも遅れないようにって言っていたよ」


 吉野の苦虫を潰したような顔が、少し和らぐ。そのまま顎をしゃくり、吉野は飛鳥にも座るようにと促した。


「何か言ってたか、あいつ」

「大変なことになってるみたい、って。それだけ」

「じゃあ、まだヘンリーからは聴いていないんだな」

 そう念を押すように訊ねられたところで、飛鳥には答えようがない。


「キャルがさ、ヘンリーの妹、アレンの姉貴がさ、正式に婚約発表するんだ。いや、もうしちまってるかもしれない」

「ロバート・カールトンと?」

「セドリック・ブラッドリー」


 途端に不快そうに寄せられた飛鳥の眉間の皺を見て、吉野はいささかほっとしたように、それまでの緊迫した空気を緩めた。


「なんだ、飛鳥も知ってたのか。まったく、信じられねぇだろ! 表面上はともかく、あいつられっきとした兄妹だぞ! アレンのところには、本当に結婚する訳じゃなくて、セドリックとアレンの悪辣な噂を払拭するための形だけの婚約だって連絡は入ってるんだけどさ。この時期にフェイラーとブラッドリーの縁談だなんて、まったく何て手を打ってくれるんだよ、あの爺さんは!」


 兄妹――。


 寝耳に水の話に、飛鳥は頭から水でも掛けられたように、全身怖気強張っていた。だがそんな彼を尻目に、吉野の愚痴ともつかぬ話は、株価や為替、政治的な思惑へと怒涛のごとく広がっている。詳細を聴こうにも、上手く口を挟むこともできないまま、飛鳥は石のように黙りこくるしかなかった。

 吉野の話を聞き流しながら、ああ、だから音楽室なのか。サラに偶然にも聴かれることのないように――、と、ぼんやりと頭の隅で納得するまま。




 

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