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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
733/805

  萌芽5  

「きみの家の庭も素晴らしかったけれど、ここはまた違った意味でなんとも贅沢な場所だね。心が落ち着くというか」

 話しかけられたフィリップは、サウードの称賛の言葉に無表情のまま頷くだけだ。愛想のない彼に代わり、吉野が会話を継ぐ。

「手間暇かけられているからな。それも人任せじゃない当主の設計だ。意気込みが感じられるだろ」


 マーシュコートのソールスベリー邸のテラスには、連日の鈍色の空から久しぶりに顔を出した太陽の柔らかな陽射しが降り注いでいる。その温もりを全身に受け留めんとばかりに吉野は大きく伸びをする。その傍らのテラステーブルに着くサウードも、のんびりと脱力して眼前に広がる緑に目を細め、肌に感じる陽射しを楽しんでいる。そして、そんな二人をフィリップだけが苛立ちを抑えきれない様子で眺めていた。もっとも、吉野と同じ空間にいて、彼が苛立っていないときなどないのかもしれないが。


「ここのセキュリティ、本当に大丈夫なんでしょうね」

「それが破られたときのために、お前がいるんだろ」

 尖ったフィリップの物言いに、すかさず吉野が言い返す。

「そのセキュリティ・システムを作らせたのは俺じゃなくてヘンリーだからな。文句があるならそっちに言えよ。もっともあいつは、お前みたいになんでもかんでも実力行使で解決を図ったりはしないからな。そこまで至らせないための備えは完璧だ。あまりぐだぐだ言ってると機嫌を損ねるぞ」


 フィリップは、そんな小言は受けつけないとばかりに、ふいと視線を逸らす。カッ、カッと靴先を床に打ち鳴らして、苛立ちだけを暗に伝えた。

 吉野にしたところで、フィリップが本当にここのセキュリティに不審を抱いているとは思っていない。彼の不満は単純に自分に向けられたものだ。そして、そんなことくらいでしか自分の存在意義を示すことのできない現状の退屈が、彼の不満を募らせていることも理解している。


 ロレンツォ同席の上で話し合われたアレンの問題の処し方が、フィリップにとって甚だ不本意なものだったのだ。そのうえ、こんな田舎に閉じ込められている。眼前の吉野にでも当たらなければ、とてもやっていられないのだろう。


「別に、いつまでもここにいなくたっていいんだぞ。退屈なら学校に戻れよ」

「そんなことできるわけがないでしょう」


 不愉快そうにフィリップは眉尻をつりあげる。宗主直々の命令でここにいるのだ。目的がこのアラブの皇太子とその側近の身辺警護という、地味で面白みのないものであっても、文句の言える立場ではない。それに、ここにいれば――。


「監督生のくせに、無責任なもんだな」

二年(にこ)上にいた先輩銀ボタンに比べれば、僕なんて、てんで優秀で誠実ですよ」

 ふん、とフィリップは鼻先で笑った。



「ああ、来たみたいだ」

 ふいにサウードが口を挟んだ。曇りのない澄んだ空の一点をじっと見つめている。

「待ちくたびれた」

 吉野が唇の端で笑う。フィリップだけがぽかんと蒼穹に視線を漂わせている。


 そうしているうちに、青の上に黒い点が現れ、少しづつ拡大しながら近づいてきた。それはやがてヘリコプターの形になり、轟音を立てて館の正面にあるヘリポートに着陸した。

 フィリップはすでに駆けだしている。ヘリに乗っているはずのアレンを出迎えるためだ。そしてサラも。ヘリの苦手な飛鳥だけが、鉄道と車を乗り継いでくる予定になっているのだ。



「やれやれ、これでやっとスタートラインだ」

「きみのお兄さんの到着は夜になるのでは?」

「サラがいないと、ここのコズモスを使えないんだ」

「きみでも?」

「まぁ、世話になってる分、勝手するわけにはいかないしな」


 笑っている吉野に、サウードも嬉しそうに微笑み返した。飛鳥だけではない。サラにしろヘンリーにしろ、彼らは確かに吉野の信頼する家族で、ここが彼の本拠地(ホーム・グラウンド)なのだ、とそう思えたのだ。心から寛いでいる彼に共鳴するように、サウード自身も安堵していた。


 

 王宮内の警備体制を一新する。万が一を考慮して、その間の潜伏先としてヘンリーの故郷である、ここマーシュコートへの滞在を、ヘンリー本人とロレンツォ・ルベリーニから勧められた。イスハークを筆頭にサウードの側近たちは、ルベリーニの居住地のどれかへと考えていたので、吉野の下した決定は彼らにとっては想定外だった。だが、吉野には常に彼らには思いもよらない思惑がある。だからサウードは、わざわざ決定の根拠に関する言及を求めたりはしない。言われるままに従うのみだ。


 そして、その結果が今のこの穏やかな静寂なら、何も不足はない。


 現在王宮でどのような調査が行われているにしろ、自分の影としての映像が、いかに自分の声でもって冷酷な采配を振るっているにしろ、それをとやかく言う権限など自分にはないことを、サウードは充分に心得ていた。おそらくその辺の事情が、滞在先がここでなければならない理由に繋がっているのであろうことも。



 テラスの石造りの欄干に腰を下ろして、吉野は緑溢れる庭園を眺めている。


「ヨシノ、」

「ん?」

「なにを考えている?」

「花――。この庭に黄水仙がないのが不思議でさ。この時期に黄水仙を植えてない庭なんて、ないだろ普通」


 ああ、と応えながらサウードは首を捻っていた。言われてみればそうなのかもしれないが。


「ご当主の好みなんじゃないのかな」

「イギリス人なら誰でも好きだろ?」


 そうなのか? とまたサウードは首を捻る。


「そう。父にとって特別な花なのよ、黄水仙は――」


 下方から聞こえた鈴を振るような澄んだ声にサウードは立ちあがり、欄干の向こう側を覗きこんだ。

 






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