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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
729/805

萌芽 

 ガラスの仕切りで隔てられた向こう側は、白い鏡面に囲まれた箱状の実験室だ。そこに佇む白衣を着た飛鳥は、じっと鏡面の一点を睨みつけたまま微動だしない。もちろんそこには対象となる何かがあるはずだ。だが、彼が何に集中しているのかは、こちら側からは窺い知ることはできなかった。


 飛鳥と同じようにヘンリーも、はたから見る限り、何を考えているのかと疑念を想起させるほど不自然に、ガラスの向こうをやるせなさを宿した瞳で見つめている。


 そんな彼らを、マクレガーは一歩引いた位置から眺めていた。普段なら飛鳥の食事管理に煩いCEOが何も言わない。社内のランチタイムはとっくに過ぎている。頭の中ではこの無意味に思える時間を調節するのが自分の役割ではないのか、とCEO(ヘンリー)の思考を推し量ろうとあれこれ考えてはいる。だが、今眼前に佇む彼は、いつもの悠然としたCEOではなく、もっと私的(プライベート)な様相であるようにも思えて、声をかけることに躊躇しているのだ。



 ガラス戸がシュッと開いた。マグレガーを困惑させていた、止まってしまっていた時間が、ようやく動きだしてくれたようだ。実験室から出てきた飛鳥は彼らに気がつくと、ふにゃりとそれまでの緊張した面持ちを崩していた。


「ヘンリー、来てたんだ。声をかけてくれればよかったのに」


 その明るい声音に表情を緩め、彼は労うように飛鳥の肩に手をかける。


「昼食を誘いにきたんだ。少し遅くなってしまったね」

「ああ、うん、ありがとう。食べるよ、お腹空いた」


 そのまま二人は肩を並べて社内の社員食堂へと歩きだす。マクレガーはほっとしたようにヘンリーに会釈し、間を置いて彼らの後へ続いた。





「ここで食べるの?」

「うん。少し気分転換したい」


 ずらりと20種は並べられたビュッフェから、飛鳥は和食を選んで皿にこんもりと盛っている。日本の『杜月』からの出向社員も多いため、食堂のメニューには和食が常に組み込まれているのだ。

 だし巻き卵、味噌汁、ご飯、メインは煮魚、それに野菜を一品――。

 飛鳥が自分で選ぶといつも同じメニューだな、とヘンリーは苦笑しながらも、今日は何も言わなかった。量さえ十分であれば、食堂のカロリー計算された食事に不足はない。これが出し巻き卵だけとか、ご飯と漬物だけということが頻繁にあるから、普段はマクレガーが彼の食事を管理しているのだ。


 正午から2時までのランチタイムを過ぎていることもあり、24時間営業のこの食堂も、今は人影もまばらだ。広々とした空間に並べられた学食のような長テーブルの端、本社ビルを囲む常緑の芝と木立が冬の柔らかな陽射しの中に見渡せる一面ガラス張りの窓際に、彼らは向かい合って座った。



「なんだか吹っ切れたような顔をしてるね」


 黙々と食べることに専念している飛鳥に、ヘンリーは安堵したように笑いかける。


「逆にきみの方が今日は浮かない顔をしてるよ。食欲がないの?」


 あまり手のつけられていないヘンリーの皿を一瞥し、飛鳥の方が眉をひそめる。箸を下ろすと、彼は言い惑う素振りをみせながら言葉を継いだ。


「僕は――、そうだね、吹っ切れたかな。きみやデヴィの言う通りだよ。神経質に考えすぎていたんだと思う。でも、」

「やはり商品として売りだすのは嫌なんだろう? かまわないよ、それで。僕も少し思うところがあってね」


 柔らかく微笑んだまま、ヘンリーはおもむろにカトラリーを動かした。いつもより若干義務的に。


「少し昔のことを思いだしていたよ。父が元気だったころのことをね。もし仮に、あのころの父をそのままの姿で再現することができたら――。そんな父に出逢ってしまったら、僕は何を思うだろう? 縋りついて教えを乞うだろうか、てね」


 淋しげに歪められたヘンリーの口許を、飛鳥は目を瞠って見つめるだけで何も答えなかった。瞬時に蘇った亡き祖父の、そして母の面影に心をもっていかれていたのだ。


「感傷というのは優しいものでもあるけれど、それ以上に、取り扱いの厄介な危険なものでもあるだろう? そんなことを考えていたよ」


 ふわりと微笑んで、ヘンリーは肩をすくめてみせた。とくだん飛鳥の返答を待つわけでもなく、束の間中断していた食事を再開する。飛鳥は呆けたようにそんな彼を見つめている。


「アスカ、」

「うん――」


 やっとヘンリーから視線を逸らすと、飛鳥は眉を寄せ考え込むように今度は窓に面を向けた。まるで目のやり場に困っているかのようだ。


 飛鳥は、あまりにも単眼的な自分の感覚を恥じていた。自分の感覚でしか他を推し量れない、客観的な視点の持てない自身のことを。

 たった今まで、人物映像に体温を設定することを考えていた。そのための道筋に目処をつけた。理論的には難しいものではない。これからヘンリーにそのことを話すつもりでいたのだ。だが彼の一言で、自分のあまりの浅はかさに気がついたのだ。


 アレンにしろ、眼前にいるヘンリーにしろ、飛鳥の知らない、想像すらできない辛い想いを抱えて生きてきたのだ。彼らが拠りどころにする人物に、理想とする状態で逢えるなら。そして自分自身にしても、もう一度祖父に逢えるなら。


 今、ここでこうしている現実と、仮想(バーチャル)の境界など簡単に崩れ去ってしまうことだろう。アレンが、飛鳥にとっては仮想でしかない吉野の影にさえも、縋りつこうとしたように。


 そこに形があるだけで救われる気がする、そんな想いに、――仮初めの救済を。そんなものは、神を語る幻影にすぎないのに。


 

 そんな麻薬にも似た蜃気楼を自分たちの手で作りだすわけにはいかない。飛鳥は正面に向き直ると、真摯な瞳をまっすぐにヘンリーに向けた。



「きみは賛同してくれるんだね。この穴埋めは必ずする。新技術は、必ず健全に使える用途を見つける」

「かまわないよ。僕はいつだってきみの判断を信じている。けれどその前に――」


 ヘンリーはクスリと笑って人差し指を立てた。


「ちゃんと残さずに食べること。箸が止まってるよ」


 飛鳥はくしゃっと顔をしかめて苦笑いすると、手に握ったままだった塗り箸を、もう一度きちんと持ち直した。


 



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