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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  醜聞6  

 アレンは椅子に腰かけていることさえなけなしの力を振り絞っているようだ。血の気の引いた蒼白い顔をして微動だできないまま、その場に固まっている。


 彼は、思ってもみなかったのだ。飛鳥が、眼前にいるデヴィッドの兄アーネストが、そして誰よりも、(ヘンリー)が――、そんなふうに自分の過去にかかわっていたなんて。


 自分の身体がマリオネットにでもなったかのように感じていた。けれど四肢をつなぐ糸はぷつりと切れてしまったようで。バラバラに散らばって、自分で操ることも持ち上げることもできない。そして心は、そんな身体のどこか奥深くに逃げ込み小さく縮み、ただ恥いっている。

 吉野やサウード、フレデリックに知られるのとは訳が違った。皆と変わらない対等な人間であるかのように装っていたことが、知られてしまったのだから。


 自分では何もできない情けない人間。常に誰かの意のままにされ、逆らうことすらできない弱い自分。決して対等になんてはなれるはずがない――。そんな自分が、図々しくも吉野の横に並びたいと大それたことを望んでいたなんて。


 こうして、甘えて、助けられ、慰められることでしか、彼を振り向かせることはできないくせに。




「ごめんなさい――」


 それ以外にどんな言葉が出てこようか。自分は吉野の優しさにつけ込んでいる。彼の重荷となっている。そのために公平で優しいデヴィッドは怒っているのだ。自分のこのいやらしい吉野への依存を軽蔑しているのだ。どんな言い訳もアレンの脳裏には浮かばなかった。その場所は、とうにめまぐるしく映しだされるフラッシュバックに占領され、彼を過去へと引きずり込んでいる。決して吉野に甘え、守られる自分を当然のように思っていたわけではない。けれど彼の優しさが、自分への負い目からくるものだなどと知る由もなかったのだ。


「あ……」


 堪らずに涙があふれ出ていた。とめどなく。眉をよせ、瞼を固く閉じて力を込めたところで効果はなかった。テーブルの上においた両の拳をぎゅっと握りこむことで、アレンはかろうじてくずおれそうな身体を支えていた。



「アレン、闘うんだ。悪いのはきみじゃない。責任を負うべきなのもきみじゃない。きみのせいじゃないことで、傷つくんじゃないよ!」


 デヴィッドの柔らかな、けれど力強い声がアレンを呼ぶ。彼はゆっくりと瞼を持ちあげ、おそるおそる声の主に目をやる。涙に曇る瞳に映る彼は怒っているかと思いきや、唇を震わせて今にも泣きだしそうな顔をしていた。


「すみません」


 蚊の鳴くような声で、またもやアレンは謝った。自分が彼に不快な想いをさせているのだ。どうして謝らずにいられようか。


「きみのせいじゃないことで、謝っちゃだめだ」


 デヴィッドの声も震えていた。アレンと同じようにテーブルの上に置かれていた拳も、かすかに震えている。デヴィッドは、ひゅうっと音を立てて大きく息を呑みこんだ。そして、ゆっくりと吐きだす。昂った心を落ち着けるように。




「以前、僕は十二歳のときに誘拐されたことがあるって話したこと、覚えてる?」


 打って変わったどこか世間話でも始めるような軽い声音に違和感を覚えながらも、アレンは小さく頷いた。


「僕はその数日間の記憶がないんだ。覚えているのは、助けにきてくれたヘンリーの姿だけ。そのときの僕がどんな有り様だったか、とか、どんな扱いを受けていたとか、すっぽり記憶から抜け落ちているんだ」


 デヴィッドはすっと遠くを、過去を視ているようなようすで目を細めている。


「ヘンリーがでっかい銃を構えていて――。やたら薄暗くて――。表に出たときの太陽の光が目に染みるほど眩しくて、」


 まるで今観てきたばかりの映画の説明でもしているように、デヴィッドは淡々と言葉を継ぐ。


「それから、銃声――」


 そこで言葉を切って、なんともいえない笑みを漏らす。


「誘拐犯六名は、全員その場で射殺されたよ」


 え――? と驚愕の声をあげようとして、アレンは自分の手で自分の口を覆った。朧に、デヴィッドの言わんとする意味の察しがついたのだ。


「奴らの口封じをしなきゃならなかった理由、解るだろ?」


 まさか、この人が――、とアレンは先ほどまでと違う意味で震えていた。カタカタと信じられない想いで揺さぶられ、身体の芯が覚束なかった。まさか、まさか、とそんな語句ばかりが頭の中で勝手に繰り返されている。



「きみと僕は同じだって、こと」


 デヴィッドはにっこりと笑って、冷めた紅茶をぐいと煽る。


「もっとも、僕は都合のいいことに全部忘れちゃったけどねぇ。ほんと、良くできてるよ、僕って人間はさ」



 どうしてこんな話をしながらこの人は笑っていられるのだろう、とアレンはまた涙をぼろぼろと溢れださせながら眼前の、普段と変わらぬヘーゼルの瞳を凝視していた。深い緑のような、金のような、不思議なほど明るい瞳――。


「僕みたいに忘れてしまえ、って言ってもそれは無理だろ? でも、同じなんだよ。僕も、きみもさ、幼くて、無力で、自分で自分を守るだけの力なんてなかった。それは僕らの責任じゃない。まして、ヘンリーやヨシノの負うべきことでもない。そこをはき違えちゃだめだ」


 兄――。彼も、自分と同じように兄の背中を追っていたのだろうか。同じように、消化できない想いを抱えて。



「あなたは強い人だから――」

「きみは弱いままでいたいの? お姫さまみたいにヨシノに守られていたいの?」


 いいえ――。いいえ――。


 アレンは唇を噛みしめて何度も首を振った。

 強くなりたい。兄のように、吉野のように、眼前のこの人のように。そうありたいと、今までだって、ずっとそう願ってきたのだから。



「じゃ、自分で闘うんだよ。まずは食べることだね。体力つけなきゃ、立っていることさえままならなくなる。人の命がかかっている訳だしねぇ」


 命? と、アレンはきょとんと首を傾げた。いくら食欲がないとはいえ、命の危険を感じるほどではないはずだ。


「ヘンリーも、ヨシノもどうするつもりなのか知らないけどさ、ロニーはともかく、あの子、フィリップは、何しでかすかわかんない子でしょ? ヘンリー、忘れてるんじゃないかな。僕の事件のとき、有無を言わさぬ結末をつけたのはルベリーニの配下だった、ってこと。まぁ、きみが望むならそれもいいんだけどさ」


 デヴィッドは唇をへの字に曲げて、首をすくめてみせる。だが唐突に持ちだされたルベリーニやフィリップの名前が自分とどう繋がるのか判らず、アレンはこの会話についていけていない。


「寝覚め悪いでしょ。知らない間にセディ、セドリック・ブラッドリーや、あいつの取り巻きが寝首をかかれてたりしてたらさ」

「寝首って――」



 呆然(ぼうぜん)と自分を見つめているアレンに、デヴィッドは呆れたように苦笑を漏らした。


「やれやれ、きみも忘れてるの! きみはねぇ、欧州ルベリーニを動かせる資格を有してるんだ。あのフィリップがきみという主君を辱められたと知って、このまま黙ってるわけないでしょ! あの子は他のルベリーニとは訳が違う。解ってるでしょ、その辺のこと!」



 今の今まで忘れていた、フィリップ・ド・パルデューの艶やかな黒猫のような高慢な顔が、アレンの脳裏に鮮やかに蘇っていた――。


 





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