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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
723/805

  醜聞4

 ティールームのドアを静かに閉め終えた飛鳥を一目見て、ヘンリーは弾かれたように立ちあがっていた。憂いを湛えた彼の表情が引き起こしたざわざわと落ち着かない不安に、一瞬で胸を塞がれたのだ。


「何かトラブルでも?」


 その場で立ち止まりはしたが、飛鳥は、それが自分に向けられた問いだと気づくのに数秒を有していた。


「ああ、そうじゃないよ。映像はガラスと変わらないくらい鮮明、でも――」と、飛鳥は言葉を詰まらせる。


「僕にも、お茶を貰えるかな」


 壁際に控えていたマーカスが、すみやかに動作する。「アレンにも持っていってあげて」と軽く彼の腕に触れ、飛鳥はヘンリーのいるテーブルについた。


「そういえば、サラとトーマスは?」

「コンサバトリーだよ。自分だけ仲間外れにされていたって、サラがお冠だからね」

「ああ、彼が説明してくれてるんだ」

「かなり、待ってはいたんだけどね。きみ自身で披露したかった?」


 申し訳なさそうに微笑むヘンリーに、飛鳥は吐息交じりに力なく首を振る。。


「そのつもりだったけどね。今は無理だな。彼がいてくれて助かったよ。今はとても――、向きあえる気分じゃないんだ」


 カチャリと置かれたティーカップに、飛鳥は気だるげに手を伸ばす。熱い紅茶を唇を湿らす程度に口に含んだ。ソーサーに戻すとき、ふと目を留めたカップの内側で、乳白色がゆらゆらと揺れている。飛鳥にはそれが自分の内面を映したように甘ったるく濁って見えた。


「ヘンリー、この企画は失敗だ。技術的にじゃない。心理的な問題点があったんだ」

「どういう意味?」

「目の前に吉野がいる。それなのに温度がないんだよ。死人と喋ってる気分だった。まだ電話で声を聴くだけの方がマシ。3Dにしたところで、TS画面の中の2D映像の現実感のなさがそのまま再現されているんだ。怖いよ。本当に影なんだよ。きみの人工知能TSのときは、こんなふうには思わなかったのに――」


 あれは、ヘンリーではないからだ。もともと人工知能を彼だと思ってみたことがなかったからだ。だから解らなかった。この違いが――。


 飛鳥は悔しそうに唇を噛んだ。アレンへの申し訳なさで涙が出そうだった。あんな生気の感じられない吉野と、現状傷ついているアレンを対面させたのだ。彼のためだと思って。彼が喜ぶと思って。迂闊だった。傲慢だった。アレンが何を求めていたのか、何が堪えきれなかったのか、飛鳥にはすぐに察しのつくことだったのに。なぜ、アレンの涙を見るまで判らなかったのか。


 自分自身の欲求にばかり目が向いて、彼の心を見ていなかったのだ、と飛鳥は後悔と自責で息を詰めている。もうその瞳には、泣き伏しているアレンの姿しか映っていない。


「アスカ、」


 呼ばれてふっと目線を上げた先で、アレンと同じセレストブルーの瞳が心配そうな、気遣うような、そんな優しげな色を湛えて飛鳥を見つめていた。


「今、きみはどっちを心配してくれてる? アレンのこと?」


 それとも、この企画が暗礁に乗り上げそうなことなのか。


 深く考える間もなくついてでた自分の問いに、飛鳥は苛立たしげに瞼を伏せた。こんな感情は八つ当たりだと飛鳥とて解っている。だが本来ならばこんなにも慈悲深い彼の瞳が、彼自身の弟の上にだけは留まらない場面を、これまで幾度となく目にしてきたのだ。繰り返し、繰り返し。



「ヨシノだからじゃないのかい? 体温を感じられないことが嫌だと思ってしまうのは。僕は、そのくらいの現実感のなさの方が、かえっていいんじゃないかと思うよ」


 予想とは異なる返答に、飛鳥はかすかに眉根をよせる。


「なまじ現実感を持ちこもうとするから、虚構が際立ってしまうんじゃないのかな。それこそ、夢にしてしまえばいい。きみは得意だろ、そんな世界を生みだすことが」


 淡々としたヘンリーの口調に毒気を抜かれたように飛鳥は笑い、軽く首をふって口を開いた。その上に、これから出てくる小言を塞ぐように、ヘンリーが言葉を継ぐ。


「解っているよ、きみの言いたいことくらい。対外的なことは僕の方で処理する。きみは、あの子があまり気落ちすることがないよう、傍にいてやってほしい」


 僕ではなく、きみこそが、そう言いかけて、飛鳥はぐっと唇を引き結ぶ。何度こんな話をしたことか――。以前と比べて格段溝は埋まったと見えて、その実、何も変わっていないのではないか。いつもそんな想いにかられてしまう。


「僕では辛いだろうからね。違いを見せつけてしまうようで。――僕はね、自尊心などというもの、人間にはもとから備わっているものだと思っていたんだ」

「そうじゃないよ、ヘンリー」

「解ってる。大切にされることで育まれるんだね。だから僕では無理なんだよ。僕の存在はあの子を追い詰める。僕にはなれないことを思い知らせてしまうからね」

「それは違う」


 飛鳥は声を高め、大きくその目を瞠ってヘンリーを見据えて言った。


「アレンはきみのことが大好きで憧れているけど、きみになりたいんじゃないんだ。愛されたいだけなんだよ。きみの笑顔がほしいだけなんだ。兄弟なんだから、そんな、当たり前の――抱擁(ハグ)が――」


 温もりが。


 きっと、吉野の温もりが。幻想ではない実感が。現実を生きぬくための実感こそが、彼が、今最も必要としていることに違いないのに。


 彼の空虚をより際立たせてしまったのだ。それも、吉野自身を使って……。


 自分は人でなしだと、飛鳥は思った。どうしてこうも配慮が及ばないのか。ごく当たり前にいたわることができないのか。小手先ばかりの技術に走ってばかりで。





「ヘンリー、あ、アスカ! やっと来たの!」


 勢いよくドアが開き、頬を紅潮させたサラが駆け込んでくる。


「すごいわ、アスカ! 来て、私の作ったサンプルを見て!」


 当然のように、サラは瞳を輝かせて飛鳥の腕を引く。アレンは、自分の抱える苦痛を誰にも振りまかず、誰にも感染させることのないように、ひとりベッドの中で丸くなっているというのに。


 皆、バラバラなのだ。

 確かに、アレンを想っているはずなのに――。



 何が正しいのか判らない。何が適切なのか決められない。自分にできることが判らない、とそんな混乱を抱えたまま飛鳥は椅子から立ちあがった。


 何か、何か見つけないと。アレンのために僕ができることを。焦燥に囚われたまま、飛鳥は半ば上の空でサラに従っていた。


 だがヘンリーはそんな彼らを、表情を消したまま何も言わず、ただ眺めているだけだったのだ。





 

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