醜聞2
白檀の香りに呼ばれたように、アレンの瞼が持ちあがる。
この香りを、吉野のいる宮殿だと思ったのだ。それなのに、頭上にかかる白い天蓋は、見慣れたものにすぎないなんて。
――記憶が混乱している。
なぜここが、自分のいるこの場所が、自室のベッドの上なのか判らないまま、アレンは細く棚引いている白い香りを目で追った。やがて視界に入った意外な顔に、思わず「えっ――」と声をあげて瞠目する。
「気がついた? 気分はどう? 吐き気や眩暈はない?」
無表情なサラの口からでる言葉は、とても冷静で事務的に聴こえる。その彼女の前にみっともなく横たわっている自分を意識して、アレンは慌てて身体を起こした。とたんにぐらりと視界が傾ぐ。額に手を当て俯いたアレンに、「まだ横になっていた方がよさそうね」と、やはり冷ややかな声が告げる。
「アスカが戻っているから呼んできてあげる。何か飲む?」
アレンが身体を横たえ眩暈をやりすごしている間に、サラは枕元から立ちあがっている。
「何がいいのかしら? ミルクティー?」
問われるままにアレンは頷いた。軽い片頭痛のする頭で何かを望むなんて、とてもできない。何だってよかった。
「少し待っていて」
白檀――。
そういえば、彼女はいつもこの香りをまとっていたような気がする。なぜ自分の部屋で彼女の香が焚かれているのか判らないまま、アレンはサイドボードに置かれた小皿の細い香から揺らぎ立つ煙を、ぼんやりと眺める。
「アレン、」
やがて軽いノックの音ととも聴こえた飛鳥の温かい声に、アレンは今度は慎重に、ゆっくりと身体を起こしてベッドヘッドに背中を預けた。
「具合は?」
「平気です。ごめんなさい。ご心配をおかけしてしまって――」
「落ち着いてるみたいでよかったよ。起きられる? 大丈夫そうなら、ちょっと僕の部屋へきて。きみの部屋、少し触りたいんだ」
「触る?」
「すぐに済むから。ちょっと手を入れるだけだよ」
目の前に飛鳥の手を差し伸べられ、アレンは不思議に思いながらも頷いて、ゆっくりと深呼吸してベッドから下りた。立ち眩みもない。そろそろと立ちあがり、何気に目を向けた窓外はいまだ明るい。もう、夜なのかと思っていたのだ。
足下もおぼつかないまま飛鳥の部屋へ移ると、ティーテーブルにお茶の準備がしてあった。少しづつ自分の置かれた現実を思いだし、アレンはやっと今朝の出来事に記憶をつないで、ぐっと下腹に力を籠めた。
倒れるなんて。なんて、みっともない――。
恥ずかしさが今頃になって背筋を駆けあがってくる。兄の侮蔑の籠った冷ややかな視線が脳裏を過る。サラのあの冷淡な態度にも合点がいった。飛鳥は――。飛鳥さんは、あの記事をどう思っているのだろうか、とふとそんな疑念が心に浮かぶなり、アレンの胃がきりきりと痛みだす。
「どうぞ」
カチャッと伏せた視界に置かれたティーカップには、乳白色の水面からかすかな湯気が立っている。
「紅茶の香りがお香と混じりあうのは、嫌かと思ってさ」
飛鳥の言葉にアレンは軽く小首を傾げる。
「白檀、心を鎮めて、落ち着かせてくれる効果があるからって、サラがね、焚いてくれてたんだ。きみのことすごく心配して、ずっと傍についてたんだよ」
「彼女が――」
「今回の事件、皆、憤慨してる。中でも彼女はダントツ。新聞社を爆破しかねない勢いで怒ってるんだ」
「まさか」
「見えないだろ? 彼女ああ見えてね、怒らせると恐い子なんだよ! それに優しい。あんな低俗なゴシップ記事を出した新聞社に対してどう抗議するかは、今ヘンリーがアーニーたち、その方面の専門家と相談してるからね。きみは何も心配しなくていい」
デヴィッドと同じように、飛鳥も取り立てて深刻ぶった様子は見せず、笑顔でアレンを力づけてくれる。サラにしても――。彼女が自分を気にかけてくれているなどと、アレンにとっては青天の霹靂だ。だが、兄は――、兄はそんな甘い人ではない。
「でも、あの記事が嘘であれ、真実であれ、僕のもつイメージダウンは計り知れないです。僕は会社に損失をもたらした。違約金を支払わなくてはならないほどの」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ! ヘンリーがそんなこと言うはずがないじゃないか!」
「その通り。きみが僕らの会社のイメージキャラクターだという路線を変更するつもりはないよ。きみ自ら、望まない限りはね。――アスカ、用意できたよ」
「ありがとう、ヘンリー! さぁ、きみにも見て欲しくて、試作品を持ち出してきたんだよ。きみの部屋に戻ろう!」
終ぞ変わらぬヘンリーの穏やかな声と、飛鳥の朗らかな声音が、アレンの鬱屈とした想いを吹き飛ばすように朗々と響き、俯いたままの彼の面を上向かせていた。
「さぁ! 下らないゴシップなんかで、きみの価値は揺らいだりしない。そんな低俗な話題以上のニュースで、世間をあっと言わせてやればいいんだよ!」
差し伸べられた飛鳥の手を、アレンはおずおずと握り返す。
自分の部屋で何が待つのか、好奇心が瞬時に心を満たしていた。アレンに映る飛鳥には、吉野の姿が重なっていた。この手の導いてくれるその先の世界が見たくて、追い続けていたのだ。彼を――。
「アスカさん――」
叩き落とされても、まだ飛び立てる翼が自分にはあるのか――、アレンこそが、知りたかったのだ。




