醜聞
朝からけたたましく玄関のブザーが鳴らされ、アレンはデヴィッドに理由も告げられぬまま腕を掴まれ、車に放り込まれた。起きてきたばかりのクリスもフレデリックも唖然と見守る中でのあっという間の出来事だった。「どうしたのですか?」と訊ねる二人に返ってきたのは、「あとで」の一言だけだった。
だがそれから一時間も経たないうちに、二人はその理由をまったく思いがけない相手から聞かされることになる。
ヘンリーの館では、到着した彼らをマーカスが迎えてくれた。二人分の朝食を用意して。デヴィッドは朝食も取らずに自分のもとへと駆けつけてくれたのだ。車中で大方の事情を聴かされたアレンは、呆然自失としたまま、向かいの席に座る彼を見つめた。
「兄は――? それにアスカさん、」
「会社。アスカちゃんは社外秘の開発中で泊まりこみ。しばらくここには帰ってきてないんだ」
「彼女は?」
「サラならいるよ。もう仕事中。記事のことはね、彼女が一番に見つけて教えてくれたんだ。ゴシップでもなんでも問題になりそうなネタはすぐに拾い上げるようにシステム化してるんだって。助かったよ。後でお礼を言っておくといいよ」
フラットでの血相を変えた様子とは違い、眼前のデヴィッドは今はいたって冷静だ。いつも生き生きとしているヘーゼルの瞳をくるくると動かしながら、さっそく朝食を頬張っている。
「珍しいよねぇ。うちの朝食でエッグ・ベネディクトなんて。どういう風の吹き回し?」
「ヨシノさんから、以前、アレンさまがお好きだとお聞きしておりましたので」
「え、僕――?」
不思議そうに、アレンの瞳がマーカスを見あげる。初老の執事は、にこにこと笑みを崩さず頷いた。
この家の人たちは、皆、優しい――。
いつもと変わらぬようでいて、さりげなく気遣ってくれているのだ。自分の想いのみに囚われて、皿に手もつけようとしなかった自分を恥じ、アレンはカトラリーを手に取った。
いつだっただろう? 確かに、吉野が同じものを作ってくれたことがある。菜食主義、という訳ではないが肉類を好まないアレンのために、ベーコンの代わりにサーモンとアボカドをマフィンに載せて――。
「美味しい――」
アレンはもう一度、マーカスに面を向けた。「よろしゅうございました」と、彼はやはりにこにこと微笑んでいる。
優しい時間、優しい空間、自分の育ってきた家とはあまりにも違う――。これが、兄の属する世界なのだ。憧れてやまない彼を育み、彼が引き継いで同じように大切に育んでいる家――。その家が、今はこうして自分を守り励ましてくれているのだと思うと、アレンはカトラリーを持つ手が震えた。奥歯を噛みしめないと、涙が零れおちそうで――。
「心配いらないって。ヘンリーが何とかしてくれるよ。アーニーもねぇ、ちょうど帰ってくる予定だしね。まぁ、今日、明日に、ってわけにはいかないかもしれないけど、どうせデタラメのゴシップだ。気に病むんじゃないよ。まぁ、腹が立つ気持ちは解るけどねぇ」
カトラリーを握りしめたまま俯くアレンに、デヴィッドはどこまでも明るく言ってのける。
彼はこのゴシップ記事に書かれている事の真相を知らない。そのことが、まずアレンを安堵させた。
知られたくない。何としても知られたくなかった。敬愛する兄や、この優しい人たちに。毅然としていなければ。こんなときこそ、毅然として――。
そう自分に言い聞かせてはいるのだが、思うように心は奮い立たなかった。エリオットでの様々な記憶がフラッシュバックして止まらない。身体を支えていることさえもどかしく、アレンは意に反して唇を引き結んだまま、デヴィッドに縋りつくような瞳を向けていた。
「無理して食べなくていいから。――アレン!」
ぐにゃりと歪む視界の端で、デヴィッドが――、駆け寄ってきてくれている。こんな自分を支えるために――。
「ヨシノ――」
手を差し伸べてくれていたのは、いつだって彼だったのに。彼しかいなかったのに。その彼だけが、ここにいない。
途切れるアレンの意識の中で揺蕩っていたのは、そんな冷え切った、突き刺さるような想いだった。
アレンがデヴィッドに連れられて家を出てからしばらくして、残された二人は友人たちからのメールや電話でその理由を、セドリックとアレンのゴシップを知らされた。
クリスは沸騰したやかんのような真っ赤な顔をして、憤懣やるかたなくその想いをフレデリックにぶつけている。
「僕は断固抗議するよ! こんな事実無根の中傷記事、絶対に許せない!」
だがフレデリックの方は血の気の引いている面で、じっと思索に耽っている。時折、クリスの怒りに任せた罵詈雑言に頷いているから、彼の話を聴いていないのではなさそうだ。
「まさかこんな事になるなんてね。アレンは辛いだろうな。デヴィッド卿がすぐに気づいて下さって良かったよ。こんな最中に大学になんて、のこのこ顔を出していたらもみくちゃにされるところだった」
ふっと大きくため息をつき、ようやくフレデリックも口を開いた。
この時間なら、もう講義は始まっている。顔を合わせた仲間内で、あっという間に記事は拡散されたのだろう。ケンブリッジに進んだ同窓生だけでなく元カレッジ寮の同期生までもが、アレンを心配し、いたわるメールを、本人ではなくフレデリックにくれていた。アレンは電源を切っているのだろうか。いまだ電話もつながらない。
「フレッド、カレッジに行こう!」
「え?」
「確かめなきゃ、皆がどんな風に受け止めているのか。この中傷記事を信じている馬鹿な奴がいるなら、たとえ一人づつでも訂正していかないと!」
決然と立ちあがるクリスをフレデリックは驚きをもって見あげ、次いで力強く頷いた。
「できることから――、だね!」




