先手8
「あの馬鹿――、」
アラブ式の低い長ソファーにだらしなくもたれかかり、眼前の何もない空間を睨みつけていた吉野が、唐突に吐き捨てるように呟いた。天井の高いひんやりとした白大理石の空間に、その掠れるような声は妙に大きく響いて聴こえた。
「何か問題が?」
「だからあいつには近寄るなよ、ってわざわざ言ってやったのに、」
腹立たしげに捲したてながら、吉野は半身を起こして床の上に置かれたトレイから銀製のポットを持ちあげ、繊細なガラスのデミカップにコーヒーを注ぐ。
「こんなちまちましたカップじゃ飲んだ気がしない。でかいカップにドリップで淹れて!」
一気に飲み干すと、吉野の視線はサウードを飛び越し、その背後に立つイスハークに呼びかける。彼は戸口に立つまた別の男に目線で合図を送る。
「ヨシノ」
「アレンだよ。あいつ、直接セドリックに逢いにいったんだ。姉貴に一言いえばすむことなのにさ。そこをゴシップ誌に撮られたんだよ。まったく、今、セドリック・ブラッドリーがどういう立場にいるか、ちっとも解っちゃいないんだ。姉弟揃って。――お花畑が!」
「一緒にいるところをスクープされただけなら、そこまで問題ないだろ? 先輩後輩だというだけだ」
「それじゃ済まないんだよ。エリオットでの事件のことが、すっぱ抜かれてる」
「まさか――」
離れた位置で図面を広げて眺めていたサウードは、自ら吉野の傍らへと移動してきた。そこには彼のいた場所からは見えなかったTS画面が、引き延ばされて浮かんでいる。大衆紙の記事らしい文字群に、サウードは眉をひそめたまま目を走らせる。
「どこからこんな……」
「セドリックがあいつを追いかけ回してるってことは、有名だったもの。今まで何も出なかったのが不思議なくらいさ。藪をつつけば蛇が出るのは当たり前だ。セドリックにしてもこいつにしても、おまけにキャルも、世間って奴に疎すぎるんだよ!」
吉野は大袈裟にため息をついている。どうしたものかと猛烈な勢いで思案しているに違いない落ち着かない鳶色の瞳を、サウードは諦観したような静かな漆黒で見つめた。
「英国に帰るかい?」
「今俺があいつのために戻ったら火に油だ」
『禁断の園――全寮制パブリックスクールでの貴公子の爛れた性生活』
いかにも低俗なゴシップ誌らしい劣情を煽る見出しで、内容はセドリックのエリオット校時代の蛮行を告発したものだ。下級生を襲撃し性的奉仕を強要し、脅迫による性関係は卒業後も強制的に続けらる。そうした密会現場を抑えたと、アレンとセドリックの写真付きでスクープしている。
現首相退任とブラッドリー新首相の就任を目前に控え、ブラッドリー大臣を引きずり下ろしたい輩は、どんな些細なネタでもスキャンダルとして煽りたてる。こんなにも解りやすく狙われている時期に、セドリックはキャルに面会を申し込んできたのだ。それをあの女は自分の抱える火種を意に介することもなく面会に応じたばかりか、セドリックと一緒になって遊び回る始末だ。
サウードの主催するパーティー内ならいざ知らず、一歩外に出られるともう吉野の掌握できる範疇ではなくなる。
アレンなら、そのくらいのことは弁えている。と吉野は高をくくっていた。自分という存在の重みに、背負う家の重みに潰されそうになりながら必死に生きてきたアレンなら、いちいち事細かく指示しなくても自身で判断し、行動してくれるだろう、と――。
その結果がこれだ。ホテルのレストランでの写真だろう。書かれている記事の何の証拠にもなりはしない。本当に二人で逢っていたかさえ定かではない。ただのスナップだ。そのスナップに、妄想的な意味付けがなされているだけの。だがアレンのあの美貌が、下品な想像を引きだし記事に信憑性をもたせるのだ。これまで穢れない天上の美と湛えられてきた天使を地上に引き摺り下ろし、泥の中に投げこむことで大衆を焚きつける。アレンは格好の餌食にされたのだ。
「生かしておくんじゃなかったな――」
「誰?」
「アブドだよ。こんな手のこんだやり口しやがって。ヘンリーやじいさんが抑えらえなかったんだ。この記事は米国経由だ。いや――、あのじいさんかもしれない。あいつならやりかねない。ソールスベリーを切り捨てて、ブラッドリーと手を結ぶための。これに比べればキャルの素行なんてスキャンダルの内にも入らない。しょせん貴族の坊ちゃんの若気の至りのお遊びなんて、すぐに忘れられる。セドリックにしてもしばらく大人しくしてればすむ話だ。だけど、性的玩具のように書かれたアレンのイメージダウンは計り知れない。要は、このスキャンダルでアレンと一緒に叩き落としたいのは、ヘンリーだよ」
今は打って変わって静かな淡々とした吉野の口調に、サウードは何も言葉を返さず、ただ小さく頷いた。
誰の思惑なのか――、それを知るには誰が損をし、誰が得をするのかを考えろ、吉野と行動をともにして、一番に教えられたことだ。
セドリックとアレンの醜聞が、どう政治的に利用されていくのかはサウードにはまだ予測できない。だが、おそらくすでに吉野の頭の中では結末までが見えている。だからもう、彼の中に一瞬燃え盛った怒りの焔は鎮火されている。吉野はコーヒーを運んできた従卒に軽やかに礼を言い、微笑みさえ浮かべているのだ。
これから訪れる未来に慄然とするであろう自分の姿と、今現在のアレンの心痛を思い、サウードは大きく息を吸い込み目を瞑って心を鎮め、ゆっくりと、吐き出した。




