先手7
「アスカは今日もいないの?」
マーカスが注いでくれた熱い紅茶が冷めるのを待ちながら、サラは今朝も空っぽの飛鳥の席に、大きなライムグリーンの瞳を据えている。
「つまらない?」
向かいの席からヘンリーの涼しげな声がかかる。サラは拗ねた視線を彼に移し、訴えるようにじっと見つめた。
「たまには帰ってくるように言って」
それだけ告げると今度は自分の皿に視線を落とし、新鮮なサラダをたっぷりと挟んだサンドイッチにかぶりつく。
ヘンリーはいい。今から研究所へ直行して一日飛鳥とすごすのだから――。
これまで飛鳥の日常は、館のコンピュータールームと、TS視聴用のコンサバトリーでの作業に終始していた。イベント開始時の動作チェックに出向くくらいで館を離れることは少なかったのだ。それが吉野の訪問以降、スイスから移転したアーカシャーの研究施設に入り浸ったままで、飛鳥はほとんど帰ってこなくなっている。アレンから連絡があったときだけだ。慌ただしく戻ってきたのは。
アレンのためには戻ってくるのに――。
ヘンリーも米国から帰ってきたところで、サラも一緒にどう、と誘ってはもらえた。けれど週末恒例の飛鳥とアレンの義務的お茶会だから、とサラは躊躇し辞退した。本音は、久しぶりのヘンリーとアレンの邂逅の邪魔になるのが怖かったから、かもしれないが。
そしてアレンが帰るとすぐに、二人は研究所に戻ったのだった。サラとゆっくり話す時間を取ってくれることもなく。
それでもヘンリーは夜遅くなっても帰ってきてくれる。だからこうして毎朝、朝食は一緒に食べている。飛鳥は連日泊まりこみだ。そのことでヘンリーは文句を言わない。飛鳥にはマクレガーをつけてあるので、体調管理は万全だからだという。
サラだけが蚊帳の外だった。今、研究所で飛鳥が何の開発に携わっているのかさえ知らされていないのだ。自分に何も言われないということは、今までのような共同開発できるものとは違う何かに飛鳥は取り組んでいるのだろう。館に帰ってこないのも、つい喋ってしまうのを自制するためなのかもしれない。自分と顔を合わせたくないのかもしれない。集中が途切れてしまうから――。
だがそのために飛鳥と二人で作り上げてきたTSのバージョンアップの企画がなおざりにされているのだ。それをヘンリーですら、良しとしている。
サラには、とても納得がいかない。
表情のないまま黙々と朝食を頬張っている彼女の不満を知ってか知らずか、ヘンリーは優しげな瞳と穏やかな笑みで、そんな彼女を眺めている。
「きみのためだよ」
小首を傾げてサラは面を上げた。
「きみを、あっと驚かせたいんだそうだよ。アスカはそのために頑張っているんだ。そんなふうに言われるとね、根を詰めるな、って言えなくなってしまってね」
「私が驚くような何か?」
「楽しみにしておいで。そこからがきみの出番なのだからね。そう長くはかからない。もう少しだよ」
余裕しゃくしゃくとした彼の笑顔を、サラはじっと見つめ返す。
「私の出番はあるの?」
か細く発せられた声は震えていた。
「もちろん。今までのアーカシャーの事業展開を根底から覆しかねない開発だよ。きみの力添えなしで進むわけがない」
だから今は我慢しろ――。
ヘンリーの深いセレストブルーの瞳はそう言っているようだった。
「それまでお預けなの?」
サラはぷっと頬を膨らませる。自分にもかかわれるのなら、教えてくれたっていいじゃないか、と。
「アスカの希望だからね」
ヘンリーはふっと表情を曇らせた。悩ましげに唇を噛んでいた。
「ヘンリー?」
「時間はかけないよ。なんとしてでも早急に仕上げさせる」
不安なのは自分だけではないのだ。ヘンリーの厳しい視線に同調するように、サラは自然と身を引きしめる。
「それに今は、彼には研究所に籠ってもらっている方がいいんだよ。世俗のごたごたを彼の耳には入れたくないからね」
ふっと緊張を解き、ヘンリーは軽く肩をすくめる。
「ヨシノのこと?」
「それもあるかな」
「他にも?」
「きみが心配するようなことじゃないよ。マーカス、」
もうこれ以上教えてくれる気はないのだ。マーカスにお茶のおかわりを注がせ、カップを口に運ぶ彼を見つめたまま、サラは何とも言えない焦燥を感じていた。
自分だって、知っている。ヘンリーが何を憂いているのか、知っているのに――。
けれど、それに触れることもかかわることも、自分には許されていないのだ、とそう思わずにはいられなかった。こんなとき、自分はヘンリーの妹であっても家族ではないのだ、と心に風が吹きぬける。
「きみが淋しがっているって、アスカに伝えておくよ」
ヘンリーは立ち上がり、いつものようにサラのこめかみに出社前のキスを落とした。縋りつくような、彼女の震える瞳の意味を解することなく、微笑んで――。




