先手
飛鳥はコンサバトリーの床に座り、ぼんやりと前方に広がるなだらかな丘陵を眺めている。
ガラス越しの灰色の空気に包まれた芝生ではない。灼熱の陽射しに晒される黄金色に流れる砂丘だ。まるで変わりないように見えながら、刻々と形を変える粒子の集合体。変化し続ける変わらないもの――。
こんな中で個を保つことができるのだろうか?
一粒の砂を摘まみあげればそれは確かに個であるのに、再びこの砂漠に戻せば二度とその同じ砂を拾いあげることなどできないだろう。そんな重なり合う個の形成する、世界で。
「あんまりそんなものばかり見てると、体内時計が狂うぞ」
いつの間に来たのか、吉野が頭上から覗きこんでいる。飛鳥は驚いて顔を反らせて弟を見あげ、相好を崩す。
「おかえり、吉野。ちょうど、お前のことを考えてたんだよ」
「だろうな」
こんな風景を飽きもせずに眺めているのだから――。と、吉野は心の中で苦笑しながら飛鳥の傍らに腰を下ろした。
「いつ帰ってきたの?」
「今、空港から直だよ」
「でもお前、また砂漠へ行くんだろ?」
「ちょっとだけな。すぐ戻ってくるよ。もう向こうで俺がしなきゃいけないことってそうないんだ」
「さっさと戻ってきて勉強しろよ。せっかく大学に入ったんだからさ」
「だな」
どことなく緊張を孕んでいた飛鳥の空気が、予想外の吉野の返答で解れている。その変化を敏感に感じとって、吉野自身も安堵したように微笑んだ。
「これ、消していいか? この景色を見てるとさ、あれもこれもしなきゃ、って急きたてられるんだ。気が休まらない」
「まだそんなにやりたいことがあるんだ?」
「そりゃあな。でも、今じゃない。時を待たなきゃならない。焦るだけ無駄なんだ」
「お前らしいね」
飛鳥はごろりと後ろに倒れ、寝転がる。天井から溶け始めた砂漠を見下ろす青空が、どんより重たい英国の空に侵食され始めている。
――そのうちまた、抜けるような青にとって代わられる。でもそれは今ではない。そのことが少しだけ飛鳥を安心させてくれる。いつか訪れる未来よりも目先の問題を、と飛鳥はかき消えていく砂漠から目を背け、脈絡もなく問いかけた。
「お前、ラスベガスの会場でガン・エデン社の新作、生で見たんだろ? どうだった」
「大したことないよ。画像がまぁ綺麗だ、ってだけだ」
「デイヴもそう言ってたよ」
「他に言い様がないんだ。取り立てて特徴もないっていうかさ。アーカシャーの定番インテリアの部分だけパクられた感じだった。でも、うちはあれだよ、筆頭に芸術性の強いアレンのデザインを掲げてるからさ、インパクトが全然違うんだよ。おとなしめの現実的な奴も揃えてはいますよ、って感じでさ」
「それでも、競合することに変わりないよ――」
飛鳥は大きく息をついた。
「駄目だな。苦手なんだ、こういうの。同じトラックを走るのってさ。順位を競うにしても、まったく違う素材や分野を扱うのなら、全然平気なのに……」
「飛鳥は昔からそうだな。競争自体、本当は好きじゃないんだ」
「そうかもしれない。勝つとか、負けるとか、ほんと、どうでもいい」
「次に進めばいい」
吉野は飛鳥を見下ろしながら、意味深に目を細めている。
「次――」
「親父と一緒に佐藤さんも来てたんだ」
「え! ベガスに? 聞いてないよ!」
「予定してなかったからな。飛鳥のこと、気にかけてくれてたよ。それでこっそり教えてくれたんだ。例の試作品できそうだって」
「例のって? 佐藤さんの研究なんてありすぎて判らないよ!」
『杜月』を支えてきてくれた父の片腕、そして祖父の友人であった大先輩の名に、飛鳥は飛び起きて姿勢を正し、正座して吉野に向き直る。先に帰国したデイヴからも、いまだ現地にいるヘンリーからも、そんな話は聞いていない。まさに寝耳に水だった。吉野はそんな兄の反応を、くだけた様子で笑いながら眺めている。
「吉野!」
「液体ガラスのTS化だよ。飛鳥が佐藤さんに頼んだんだろう?」
「実現できるの!」
「ほぼほぼな、できてるって」
想像だにしていなかったニュースに、飛鳥は驚愕の表情のまま、その場で固まってしまった。吉野は苦笑って、そんな兄の頬をペシぺシと張る。
「信じられないよ――」
「自分が提案したんだろ?」
「でも、まさか、こんなに早く――」
「そうか?」
飛鳥の思いついたTSガラスの液体化構想から、すでに5年だ。吉野には、早いとは思えなかった。けれどそもそもの本筋とは外れたオプション的な取り組みだから、それでも早いといえるのかもしれない。そんなものかな、と吉野は首を捻りながら預かった伝言を続ける。
「だからその液体ガラスをさ、どんなふうに使うのか具体的にしとけってさ」
その言葉に飛鳥の肩がぴくりと跳ねあがる。彼は、にっこりとさも嬉しそうに満面の笑みを湛えて深く頷いた。
「うん。それは、もう、いろいろあるよ。やりたいこと、たくさんね!」
この部屋に入ってきたときに吉野を不安にさせた、砂漠の中に呑み込まれそうに見えた淋しげな背中が、今は生命力を取り戻して輝いている。吉野も同じように鳶色の瞳を輝かせて、そんな兄の瞳を覗きこむ。
「例えば? あ、ちょっと待って。俺、腹減ってんだ。メアリーに何か作ってもらう」
内線に向かう吉野にはおかまいなしで、飛鳥は喋り始めている。とめどなく止めることなどできない水の流れのようだ。
新鮮なモチーフ。飛鳥に必要なのはそんなものなのだ。
飛鳥は留まっていては駄目なのだ。常に流れていなければ――。異物を取り除き、堆積する余計な想いを掬いあげ、澱むことのないように――。
メアリーに軽食を頼むと兄の前に座り直して、吉野は、それは自分も同じなのだと、変わらぬ幸せを守り続けることを胸に誓い、刻みつけるのだった。




