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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  綻び7

「きみは、今も高みから地上を見下ろしているんだね」


 淡々としたサウードの声に、吉野は窓に向けていた面をおもむろに返した。

「別に眺めていたわけじゃない。考えていただけだよ」

 何を? と問うようにサウードは軽く眉根を持ちあげる。

「こんな地面から離れたところでばかり暮らしているとさ、頭ん中も地に足つかなくなってふらふらしちまうものなのかな、って思ってさ」

「翼を持つきみが、そんなことを言うのかい?」


 ソファーの背もたれにゆったりともたれかかったまま、サウードはくすくすと笑った。いつだってこの地上のしがらみから逃げるように大樹の枝に腰かけていた、黒いローブを瞼裏に浮かべていたのだ。その頃と同じ表情で下界を眺めていたではないか、と。


「そんなもの持てたことなんてないよ。自由が欲しいから空を眺めていたにすぎないよ」

「誰しもが、きみの中に自由を見ていたのに?」

「錯覚だよ」


 サウードは少し考え込むように押し黙る。やがて間をおいて立ちあがると、彼は巨大な一枚ガラスの窓に両手をつき、下界を覗きおろした。


「きっと、きみのいう自由は果てしなく遠く、広いのだろうね。僕の望む自由なんて、ちっぽけな箱の中のものにすぎないけれど。そして僕の住むその箱は、きみの手のひらに握られている。きみの目に映る世界は、この景色よりも、もっと遠くまで広がっているのかな?」


 高層ホテルのペントハウスから臨む窓外には、個性的な趣向を凝らした数々の高層建築が立ち並び、広い道路にはひっきりなしに車が連なる。だがその奥には乾いた砂漠が広がっている。


 既視感に襲われ、サウードは吐き捨てるように呟いた。


「眩暈がしそうだ」

「そうだろ」

「え?」

「人はたぶん、地面から離れて生きちゃいけないんだ」


 何を見つめているのか判らない、遠い目をして呟いた吉野を、サウードは訝しげに見つめ返していた。


 


 欲望の街、ラスベガス――。カジノだけではない。この街はショービジネスの中心地でもある。国際見本市でのヘンリーの講演後、アーカシャーHDの展示ブースには、常に新しい刺激を求めている、ラスベガス中のホテルアトラクション関係者が殺到したという。低コストで多種多様に消費できる娯楽として、この会社の提案はこの国に受け入れられ、歓迎されたのだ。その確かな手応えに、ヘンリーと一部スタッフたちは帰国を伸ばしてこの地にいまだ留まっている。この成功に問題があるわけではない。理に適っている、と吉野にしても理解している。


 だが、吉野は今、それ以降の世界の行く末を考え試算していた。アーカシャーの提案した新事業がどれほど世界を変革させ、他業種の仕事を奪い失業者を生みだすことになるのか――。それが時代の流れというもの。必要な痛みだということも解っている。その痛みに逆恨みされ、傷つけられることのないように最大限の防衛を築くこと。それが現在の彼の最大の関心ごとなのだ。


 この流れの行き着く先が本当に正しいのかどうか、それは吉野にも判らない。どうであれ、すでに怒涛の如き流れを堰き止める術はない。進むしかないのだ。おそらくこの来たるべき未来を、自分が気に入ることはない、と解っていても――。



「サウード」

 ガラス窓に背を預けて自分を見つめていた彼に、吉野はにっと笑みを見せた。


「ロンドンに帰るぞ」

 同時にほっと緊張を緩めた彼の様子に、吉野は声をたてて笑った。

「喜ぶなよ。ここが安全とはいえないから帰るんだからさ。イスハークを呼んでくれ。対策を立て直さなきゃいけない」





「まったく、笑いごとじゃないんだぞ!」


 厳しい声音で呼びつけたイスハークに今朝の出来事を話す吉野を、横で聞いていたサウードは遠慮なく腹を抱えて笑っている。


「残念だな。僕もぜひお会いしたかったよ。伝説のカリスマクウォンツって輩に!」

「一度会ってるだろ。ニューヨークでさ」

「ああ、そうだったね。ちょっと独特な風貌の御仁だったね」

 サウードは記憶を探るように目を細める。


「お前の居場所が知られているのは、毎晩のように人目もはばからずに遊びまわっているからだろう」


 相変わらずの無表情で、だがどこか苦々しげな口調でイスハークが口を挟む。いや、口を挟んだのはサウードの方だ。今、吉野は警備責任者である彼と向き合っているのだから。


「ジムの情報網だからな。どこに隠れようと何をしていようと、俺の居場所くらい把握してるよ。問題はそこじゃない。ここまで入ってきた、そのルートなんだ。王様に頼んだまでは想定内だ。その後だよ。たかだか一介の米国人が、アル=マルズーク王家を動かせることが問題なんだ。イスハーク、お前の一族内の領分だ。このルートを切ってくれ」


 イスハークはわずかに眉根をあげて頷いた。吉野の意味するところを理解し、自分の血族で固められている警護に関する指揮系統を思い浮かべる。吉野に接近できるということは、サウードにも容易に近づくことができるということなのだ。今回は害意のないものだったから事なきを得たというものの――。


 肝心の陛下があてになるお方ではないから――。


 お年を召されたからなのか、それとも抑えていた気質に抗えなくなってしまわれたのか。その偉大さを常に聞かされ成長したイスハークにとって無念ではあった。だが彼はすでに次に王となるべき主君を得ている。彼は、降りかかる火の粉を払うべく自分がすべきことは何かを充分に心得た従者だった。


 



クオンツ(Quants)…… 高度な金融工学の手法を用い、株式市場マーケットの動向などに対して分析や予測を行う業務、またはその専門家のことをいう。

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