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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  ガイ・フォークス・ナイト6 

「おいハリー、このパンフレット、お前が言っていた内容と違うぞ」

ガイ・フォークス・ナイトを五日後に控え、待ちかまえていたエドワード・グレイは馬場から戻る途中のヘンリーを捉まえて小声でささやいた。


 ヘンリーは眉をひそめて、刷りあがったばかりのきついインク臭のするパンフレットを眺め、「やっぱり仕掛けてきたね」と、小さく息をつく。


「なんだって同じ寮内でこんな馬鹿なマネするんだろうね」

「まったくだな。お前にケンカを売るなんて気が知れない」

「自覚が足りないんだよ。相手は僕だってことが判っていない。それでエド、進捗は?」

「予定通りさ」


 エドワードは含み笑いで豪快に身を揺すりながら、楽しげにヘンリーの肩に腕を回した。


「せいぜい楽しい祭りにしようぜ」







「映画班のルベリーニさん?」

 突然のノックの音に部屋の(あるじ)がドアを開けると、そこには噂の東洋人が立っていた。

「ご相談したいことがあるんですが」

「入れよ」

 主は顎をしゃくりって、初めて間近に見る留学生、杜月飛鳥を部屋に招き入れた。



 ロレンツォ・ルベリーニは、イタリアからの留学生で飛鳥と同じ最終学年生だ。ダ・ヴィンチの描く洗礼者ヨハネによく似た、黒髪に生き生きとした漆黒の瞳の長身の若者だ。彼はどこにいてもすぐに判る、ほがらかな笑い声と華のある雰囲気で、寮でも校内でも人気者だ。だが、寮の食事は「これは人間の食べ物じゃない」と豪語し食堂に来ることはなかったので、飛鳥と顔を合わすこともなく、言葉を交わすのも初めてだった。



「映画の、ラストシーンに手を加えたいんです」

 飛鳥は手にしたノートを開き、手描きの絵コンテを見せた。

「セリフはないです。映像処理だけでもお願いしたくて。もしも、難しようでしたら、僕が全部、」


 渡された絵コンテを、ロレンツォはじっと睨みつけるような瞳で凝視している。そんな彼に臆することのないようにと、飛鳥は瞳に力をこめる。そして想いとは裏腹の、怯えていると受け取られかねないもつれる舌先で、必死に説明を続けていた。


「本当に、これをやるのか?」


 飛鳥の懸命な言葉をとうとつに遮って向けられた、眉間に皺を寄せたロレンツォの険しい表情に、飛鳥は息をぐっと詰める。だが唇を引き結んでゆっくりと神妙に頷く。


「ブラヴォー! この閉鎖的で陰気臭い英国でも、お前のような奴がいるんだな!」



 飛鳥は腰かけていた椅子からひき立たされ、思いっきり抱きすくめられていた。


「やろうぜ! まかせろ! 最高のラストシーンを作ってやる!」


 ロレンツォは飛鳥を放すと椅子に座り直し、まだ驚き覚めやらず心臓をバクバクさせている彼に、しかめっ面の、それでいて瞳だけはきらきらと輝いている顔を近づけて言った。


「あいつらにバレないように、詳細を詰めようぜ。バレたら絶対邪魔される。当日まで隠し通すんだ」


 彼は楽しくて堪らなさそうに破顔一笑すると、片目を瞑ってみせた。





「あとは……」

 自室に戻った飛鳥は、ベッドに倒れるように寝ころがって思考を巡らせる。

「疲れた。糖分が足りない……」


 軽く目を瞑っただけで、急激な眠気に襲われていた。





 どのくらい眠っていたのか、次に飛鳥が目を開けた時にはヘンリーが戻っていた。


 久しぶりに、彼は窓辺でヴァイオリンを弾いていた。彼には音色が聴こえているみたいだ。彼の音が聞こえない自分の耳の方がおかしいんじゃないかと、夢現のなかで、飛鳥はぼんやりと考えていた。


 ヘンリーは何度もその手を止め、時計を見ては何か紙に書きこんでいた。



 飛鳥は、ずっしりと重たく感じる自分の体を無理やりひき起こした。


「邪魔してごめん、ヘンリー。砂糖、持ってない? できたら角砂糖」


「あるけれど――、お茶を入れようか?」

 ヴァイオリンを置いて、飛鳥のベッドへと歩み寄る。


「角砂糖が食べたい。頭が働かないんだ」


 ヘンリーは棚からシュガー・ポットをおろし、飛鳥の横に腰を下ろして手渡した。まじかで見た彼は、疲労から土気色の顔色をしている。ぐったりと壁にもたれていた彼は、ポットから角砂糖を一つ摘まみあげ、そのまま口に入れてガリガリと噛み砕いた。


「ありがとう。助かった。僕は糖分がないと駄目なんだ。このところ食べるペースが速すぎて、在庫が切れちゃってて」

「いつもこんなものを食べていたの?」


 飛鳥は首を横に振った。


「いつも食べているのは、日本から持ってきていたブドウ糖だよ。こっちでも、買えるかなぁ?」

「どうだろう? 実家の方に送ってもらったら? 一週間もかからないと思うよ」

「そうだね。そうしようかな、食感が変わると嫌だし……」


「ずいぶん疲れているみたいだ。無理をしすぎじゃないのかい?」


 ヘンリーは腕を伸ばして、熱を測るように飛鳥の額に触れた。


「最後の部分が納得できなくて。もっとこう……。炎を、こう……」


 疲れと眠気のせいか、飛鳥の頭の中では、炎がクルクルと回りだしていた。


 飛鳥はまた、ズルズルと倒れ込んでいる。


「ヘンリー、上掛けを掛けてくれて、ありがとう。お陰で暖かかったよ」と、寝言のように呟いて、瞬く間に眠りに落ちる。



 ヘンリーは彼に上掛けを掛け直し、倒れたシュガーポットを拾って飛鳥の机の上に置いた。



 何かに打ち込むと深く夢中になる。それなのに体力が伴わなくてすぐにヘタってしまう。おまけに、角砂糖をガリガリ齧る――。こんなにもサラに似ているなんて……。



 飛鳥の顔にかかる髪を軽く指で梳き流しながら、慈しむような、愛おしむような、そんな柔らかな笑みをヘンリーは浮かべていた。







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