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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
706/805

  綻び3

 基調講演を終えたばかりのアーカシャーHD控室では、ヘンリーを囲んでの安堵と、互いを称賛する抱擁が交わされたのも束の間、緊迫した空気で満たされていた。

 映写調整室から戻ってきた吉野と、いつもの和やかな空気を一変させて冷ややかに彼を迎えいれたアーネストが、睨み合っているのだ。


「今ここで話さなければはらない問題でもないだろう?」

 口を開きかけたアーネストを、ヘンリーが直前で封じる。

「俺はかまわないよ、ここだろうと、どこだろうとな」

 吉野は悪びれた様子もない。


 一難去ってまた一難か、とデヴィッドはそんな二人をうんざりと見比べる。


「僕は先にブースに戻るねぇ。映像のヘンリーを見張っておかなきゃいけないからねぇ」

 言い訳がましく誰にという訳でもなく呟いて、デヴィッドはドアへ向かった。すれ違いざまに彼の肩をぽんと叩き、ヘンリーは「デイヴ、ありがとう。頼んだよ」と労い見送る。継いで傍らに控えていたマクレガーに、彼に同行するようにと視線で促す。



 控室のドアを閉めるなり、デヴィッドの口からは何ともやりきれない、深いため息がついてでていた。気づかうような視線を向けるアルバートに、事情を告げる気にもならない。彼の心は、兄と吉野が言い争うのを見たくはない。ただ、それだけのことなのだから。


 彼は、まさか吉野本人が本当にこの会場にいるとは思ってもいなかったのだ。それもガン・エデン社の発表を知り、突発的な対応に協力するためにこうして駆けつけたなどと――。おそらくアーネストは自分と同じように、それすらも吉野の計算のうちではなかったのかと疑っているに違いない。


 デヴィッドは湧きあがるどっちつかずな嫌悪感を呑み下すように喉を鳴らし、唇を引き、前方を睨みつけた厳しい面持ちで会場に向かっている。

 付き従うアルバートも、理由は判らずともそんな彼を慮って特に話しかけてくることもない。学生時分のアルバイトとはいえ家庭教師としてラザフォード家に仕え、幼い頃から彼のことは知っているのだ。常に人を気遣う自身の性質(たち)を忘れるほどに、デヴィッドが頭を占める問題に没頭しているのは理解していた。



 アーネストは、ライバル社のCEOの息子ロバートと懇意にしている吉野が情報をリークした可能性を疑っている。それも相手の利益に貢献するためではなく、見かけはそうみせながら、結果的によりガン・エデン社を貶め、窮地に追い込むために――。


 吉野なら、それくらいの策は講じても不思議ではない、とデヴィッドは、彼のリック・カールトンへ向ける憎悪を痛いほど理解していた。だがその復讐に、いや、復讐というのは正しくはないのかもしれない。ガン・エデン社は、自分たちにとっても歴然としたライバル会社なのだから。この程度の権謀はあって然るべきだろう。

 そんな現実をいくら頭で納得させようとしても、そこにアレンを巻き込むとなると話は別だ。感情は、仕方ないこととして頷かない。アレンの吉野への想いを知る以上、デヴィッドは、吉野が彼やフェイラー家を盤上の駒として使うのを見たくはないのだ。

 そしてアーネストはヘンリーのために。彼と同様、吉野がこれ以上フェイラー家と事を荒立てることを良しとしないだろう。



 そんな想いに囚われている内に到着していた自社ブースは、いまだ講演発表は続いているにもかかわらず、講演前を凌駕する人出で賑わっていた。いち早くデヴィッドに気づいた社員が満面の笑みで駆け寄ってくる。

 デヴィッドはたった今まで胸を占めていた問題の全てに蓋をして、にこやかに腕を高く挙げ、スタッフの喜びそのままのハイタッチを掌に受ける。その様子にアルバートもようやく胸を撫で下ろしていた。

 


 


 デヴィッドが控室を出てからまだわずかの時も経っていない。だが、室内の空気は一変していた。

 アーネストもヘンリーも、若干皮肉めいてはいるけれど、クスクスと口許をほころばせているのだ。


「まさかそんな理由での経営破綻だとはね」

 濁りのないセレストブルーの瞳をさもおかしそうに眇め、ヘンリーはアーネストと顔を見合わせる。

「金融にかけては、きみは(まさ)しく悪魔だな。人間の欲望に喰らいつき、容赦なくその弱い心に悪徳を囁く」

「その悪魔を飼っているのはあんたじゃないか」

 吉野はにっと唇の端を跳ねあげ、軽く肩をすくめる。


「まぁ、上手くやるよ。心配いらない。それよりさ、このことはあいつには内緒にしておいて欲しいんだ」

 首を傾げるヘンリーに、吉野は呆れたような吐息を漏らす。

「あんたの弟だよ! あんたに公の場で弟扱いしてもらった、ってあいつ、きっと今頃泣いて喜んでるよ」

「そっちが本題だったの?」

 またヘンリーはクスリと笑う。

「まさか! 副産物ってやつさ。でも本当の理由を知ったら傷つくだろ? あいつにとって、あんたは特別なんだからさ」


 特別なのはきみだけだろう――。とでも言ってやりたいところだが、ヘンリーは口には出さなかった。吉野の言い分にも一理あると、心得ていたからだ。



 アレン・フェイラーとの共同事業は、不仲を囁かれているヘンリーとフェイラー家の良好な関係を連想させ、憶測を払拭するだけの効果をもたらすことになるのだ。

 投資家たちは日を置かずして知ることになるだろう。米国在住のマシュリク国廃太子(はいたいし)、そして著名投資家でもあるアブドルアジーズ・H・アル=マルズークが、彼の持つ全てのガン・エデン社株を処分したことを。先見の明のある大投資家である彼は、今回のこの見本市で、これまでの投資先(ガン・エデン社)を見限りアーカシャーHDに乗り換えるのだ、と彼らは想像せずにはいられないだろう。石油事業を通してのアブドルアジーズとフェイラーの結びつきも周知の事実だ。憶測は憶測を呼ぶ。風説の流布となって市場を駆け巡ることとなる。


 いづれそう遠くない内に、カールトンに次ぐ大株主であるフェイラーも、ガン・エデン社を切り捨てるのであろう、と――。




 ガン・エデン社の持ち株を全て市場に放出すること。それが、破綻した国営企業アッシャムスのCDSを売り、膨大な負債を抱え破産寸前のアブドルアジーズを救済するための交渉で、吉野の出した唯一の条件だったのだ。



 



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