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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  綻び2

 ヘンリーの講演が終わっても、誰もがぼんやりとその場に座したままだった。アレンもさすがに泣き止んではいたが、赤くなった鼻をまだハンカチで抑え、唇を結んでぎゅっと眉根を寄せ、瞼を伏せたままだった。


 彼には、あの兄がこんな(おおやけ)の場で自分のことを弟と呼んだことがいまだに信じられなかった。このインテリア部門は自分たち兄弟の大切な共同事業である、と兄自身の口で語られたことが、アレンの胸にこれまで感じたことのなかった揺らぎない自信を生みだしていた。だが彼の中では、全身を駆け巡る高揚感と、それを安易に信じるまいとしている自分が、せめぎ合っている。


 彼にとって、この館に迎え入れられてからの兄ヘンリーとともにすごした日々は、米国で暮らしていた頃の夢想など追いつかないほどの豊かに充実したものだった。けれどアレンの中ではそれはあくまで、いつかは覚める夢のようなものでしかなかった。兄にとって、自分などしょせん、気づかってくれる吉野や情の深い飛鳥の手前仕方なく接するだけのただの体裁にすぎないという想いしかなかった。

 あの兄が、自分のようなものを(かえり)みるはずがないと、それは苦々しい信念としてアレンの心に深く根を張っていたのだ。


 なぜなら彼は、兄が自分を嫌っていることを知っていたから。彼は自分の性質が、兄がこの世で一番嫌っている女、自分たちの母親にとても似ているということを自覚していた。自分がどれほどこの兄を深く慕おうとも、兄がその想いに応えてくれる日はないと信じていた。自分はどこまでいっても一介のフェイラーにすぎず、血の繋がりさえないソールスベリーになれることなどないのだ、と。


 

 だから、赤々とした焔の揺らぐ煉瓦造りのこの大きな暖炉の上に映しだされたヘンリーの基調講演で語られた内容は、アレンにとってまさに奇跡としかいいようがないものだったのだ。

 

 デヴィッドが社のイメージキャラクターとしてアレンに声をかけてくれた時も、こうしてインテリア部門の企画に参加させてもらうようになってからも、本当に一部の間にしかアレンの本名とヘンリーとの関係は告げられることはなかったのに。デヴィッドや吉野からは、それは彼が未成年だったからで、マスコミや世間からいらぬ好奇心を向けられることを避けるためだと説明されはしたけれど。アレン自身は、兄は、自分の存在を恥だと思っていると信じて疑ったことはなかった。


 自分よりも吉野の方が、兄にとっては、より弟として相応しい存在だと思っているのだろう、と。


 それなのに――。


 アレンは、この奇跡をどう捉えていいのか判らなかった。ただ湧きあがる歓喜に、溺れ死んでしまいそうに感じていた。





「アレン、抹茶ロールを食べてみなよ。さすがにヨシノのお眼鏡にかなっただけあるよ! きみの好きな味だと思う」

 クリスに肩を叩かれ、アレンは我に返ってびくりと痙攣した。慌てて周囲を見回すと、いつの間にかマーカスがお茶の用意を整えていた。


「うん。日本のケーキと変わらない。美味しいよ」

 飛鳥がどこかぎこちなく、だが嬉しそうに目を細めている。


 ローテーブルの上には温かな湯気を燻らす芳香が揺蕩い、渋い緑と白のコントラストが美しいロールケーキが置かれて、先ほどまでの緊迫した空気を追い払い和やかな団欒の席へと変えていた。

 

「彼女は?」


 この場にサラがいないことに気づき、アレンは首を傾げた。


「あ、うん。講演の後は自社ブースでヘンリーの立体映像を公開するからね。引き続いて見てくれている。彼女はあんぱんが好きなんだ。きみたちのお土産、喜んでいたよ」


 サラに代って、飛鳥はクリス、フレッド、アレンと一人一人見渡しながら礼を言う。


「こんなに距離があっても、仕事中なんですね……。アスカさんは? 僕たちお邪魔しているのなら、そう言って下さい」

「ああ、僕は大丈夫。何かあれば呼ばれるし。それに、他社の講演内容を見ておくように言われてるんだ」


 飛鳥は時折ちらちらと、暖炉上の大画面に目をやっている。ヘンリー以降の講演では、今のところ、取り立てて彼の興味を引くような製品は出ていない。

 誰の目から見ても、ヘンリーの示した未来図が断トツだ。それは画面から垣間見える、集中力を欠いた観客席の様子からも見てとれた。空席が増えている。このまま他社の講演を聴くよりも、アーカシャーのブースへ急ぎ、誰よりも早く先ほどのヘンリーと言葉を交わしたい、そんな連中が多くいたに違いない。


 


 しばらくお茶を楽しんでから、飛鳥は神妙な声音でアレンを呼んだ。


「アレン、ヘンリーがきみの心配をしていた。こんな形できみの名前を発表してしまってすまなかったって。もう少し落ち着いたら直接連絡するって」

 え? と声にだすことはなかったが、アレンは不思議そうに飛鳥を見つめ返している。

「マスコミ。当分警備は強化するけれど、気を引き締めておかないと」


 ああ、と納得したようにアレンは頷き、笑みを零した。謝られるようなそんな問題だったのか、とよぎった疑念はすぐさまかき消えていた。そんな心配までしてくれる兄の心遣いが素直に嬉しかった。



 飛鳥は、そんなアレンを真っ直ぐに見つめることができず、視線を落としていた。ヘンリーは講演後、確かに一番に飛鳥に連絡をくれた。アレンのことを気にしていた。


 突発的な事態に対応するために彼の名前を使ったことを、申し訳なく思っている――。


 そう言った。彼は、ガン・エデン社と被ってしまった新製品のイメージを、兄弟の共同企画という聴衆の情に訴える名目と、謎のままにおかれていたイメージモデルの正体という二重のインパクトでもって装飾したのだ。


 そして、人工知能の立体映像(ヘンリー)でもって。彼以外で制作できる人物映像は、店舗を飾る立体映像として撮影されてきたアレン、そして飛鳥とともに直接制作に携わり、動きのサンプルとして使っていたデヴィッドしかなかったのだ。


 予行練習できる時間などなかった。遠隔操作でサラは人工知能を操り、その場にいた吉野がぶっつけ本番で飛鳥に指示を仰ぎながら、映像(ヘンリー)を、膨大なサンプルデータから抽出したアレンの姿に、そしてデヴィッドに切り替えていのだ。



 この事実を、飛鳥はアレンを目にしたとたん、告げる訳にはいかない、と固く心に決めた。彼がどうして泣いているのか、瞬時に理解できたからだ。アレンのそんな姿を目の当たりにするまで、彼にとってのヘンリーの存在の重さも、今まで薄々感じてはいた彼の孤独も、真に理解しているとは言えなかったのだ、と飛鳥は胸を抉られるように感じていた。


 認められた――。

 アレンは、そう思ったに違いない。


 これは決して偶発的な事件ではなく、ヘンリーの意志であったのだ、と。


 そんなアレンの想いを察し、飛鳥は俯き、きつく唇を噛むより仕方がなかったのだ。


 



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