綻び
ヘンリー邸ではこの場にいる誰もが、赤々と燃え盛る暖炉の上に設置されている大画面を固唾を呑んで見守っていた。今から始まるヘンリーの基調講演への期待を失ってしまったわけではない。それだけは確かだ。けれどたった今、大番狂わせを目の当たりにしたばかりなのだ。それに対してヘンリーは、予定通りにいくのかそれとも――。
不安とも、期待ともいいようのない各々の胸に渦巻く葛藤に、互いに言葉を交わすことさえ忘れている。
「アスカさん……」
とうとう沈黙を破って、アレンが縋りつくような視線を飛鳥に向けた。
「あれって、」
「偶然だよ! アイデアとしては新しいものではないんだ。仮想空間のインテリアへの応用は、ヘッドマウントディスプレイを応用したものなら以前からあるんだよ。確かにこれも似ているけれど、うちとは仕様が違う」
飛鳥は自分を見つめるアレンや、クリス、フレデリックの不安に応えるように声を高める。
漏れていた――。
あるいは、盗まれた。その可能性は否めない。たった今、画面の向こうでガン・エデン社が発表した新製品は、壁に埋めこんだ巨大スクリーンに3D映像を投影して多種多様なインテリアを楽しむという映像投影装置だったのだから。
それも、ヘンリーの発表のたった一つ前に。
ヘンリーの講演開始時間が遅れている。すでに10分も過ぎている。仕様は異なっているとはいっても、印象が被ることは否めない。似たような内容なら、一分一秒でも先に発表した方に利があるのは周知の事実だ。
飛鳥やアレンたちの脳裏には、数年前の、この同じ会場でのヘンリーの講演が蘇っていた。彼が初めてこのラスベガスの見本市に参加した折のことだ。ガン・エデン社のリック・カールトンは、自社の目標であったAR技術を用いたタブレット端末をヘンリーに先取りされ、その後すぐに控えていた基調講演の内容を変更したのだ。
その苦渋の選択を、ヘンリーも今まさに迫られているのではないだろうか――。
そんな考えたくもない推測に、ここにいる誰しもが圧し潰されそうに感じていた。
映像インテリアではなく、人工知能連動型の映像を。それでこの危機は乗り越えられる。だがそうなるとアレンやデヴィッドのこれまでの苦労は、これからの事業は……。などと口にすることさえ憚られ、皆押し黙るよりほかはなかった。
リック・カールトンの講演で新作の投影装置の概要が明かされるなり、サラは飛びたつように席を外した。飛鳥自身がそうしたかった。アレンは自分のTSネクストを手に、連絡を取るべきかどうかを迷っていた。飛鳥の方をチラチラとみて判断を仰いでいたのは、飛鳥にしても判っていた。
ヘンリーに、デヴィッドに、会場での生の反応を訊ねたい。どう対応するのかを教えて欲しい。だが、今ここで自分が動いたところで、何ができる訳でもない。かえって邪魔にしかならないに違いない。
――最前線で闘い、仲間を守ることこそが僕にできる唯一のことだよ。
訊ねたところで彼はそう返すだけだ、と飛鳥は知っている。自分にできることがあるのなら、彼らの方から連絡をよこすはずだということも。
おそらくは混乱に陥っているであろう現場を脳裏に思い浮かべ、これ以上の混乱に拍車をかけないように、とただそれだけを願って飛鳥は沈黙を守り、膝の上で拳を握りしめているのだ。
「アスカ! 来て」
二階の手摺りから、サラが身を乗りだして呼んでいる。飛鳥は跳ねるように立ちあがった。
「あ、始まるみたいですよ!」
クリスもその場に立ち、画面を指さした。飛鳥はちらりと画面の中のヘンリーに目をやり、頬をほころばせる。
「あれは、スペアの方だよ!」
そのまま壁際の螺旋階段を、カンカンと靴音も高く駆けあがる。
「サラ、どうなっているって? 何か僕にできることはある?」
「大丈夫。むこうにはヨシノがいる」
「え……?」
飛鳥の知らない事実がまた一つだ。身をすくませて立ち止まってしまった彼を尻目に、サラはもう、パソコンルームのいつもの席に陣取っていた。
いくつもあるモニター画面のひとつの中で、映像のヘンリーが、本物と一寸も違わぬ誰をも魅了するその笑顔で喋り始めていた。
「兄は、兄は、本当に……」
ハンカチで目許を押さえてむせび泣くアレンの、声にならない言葉を汲みとって、フレデリックはその後を継いだ。
「すごい方だね」
「驚いたよ。本当に」
クリスも放心したような、深い吐息を漏らしている。
「まったく、やはりヘンリーはヘンリーだね」
二階の手摺りから、飛鳥が階下を覗き込んでいる。
「こっちは寿命が縮まったっていうのに、彼はそんなものどこ吹く風だ」
ヘンリーは講演内容を変更しなかったのだ。
ガン・エデン社と同じ、立体映像でのインテリアを提示しながら、あくまで顧客側が自由にカスタマイズできる自由度を強調し、ただの映写ではないことを知らしめた。アレンとともに。
このインテリア部門の設立は、実の弟であるアレン・フェイラーと親友デヴィッド・ラザフォードの初の共同事業であり、自社の専属モデルでもある天使のデザイナーとしての初仕事でもあるのだと、説明するヘンリーの姿が一瞬のうちにアレンに切り替わった時、会場からは悲鳴に近いどよめきが沸きあがった。ステージ上のヘンリーが、人工知能によって動作する単なる映像であったことさえ、一人として気づく者などなかったのだ。そして、決して表に出ることのなかったヘンリーの実弟、フェイラー家の後継者とも囁かれるアレンが、あのアーカシャーの大天使の正体であったことにも。
現れた本物のヘンリーと、時にアレンが、デヴィッドが、そしてヘンリー自身が新製品を語りあう。話しながら、彼らは目まぐるしく変化する映像で作られた室内を歩き回る。立ち止まる。いつの間にか彼らの立ち位置が変わっていて、どちらが本物のヘンリーか解らなくなる。
まるで魔術を見せられているようだった。誰もがその不思議さに魅了されていた。美しい大天使の指し示す未来に息を吐き、ヘンリーとデヴィッドの語る夢に目を瞠る。
アーカシャーの提示する空間は、顕在された自我である。
より明確に、自分自身を表現するために――。
ヘンリーのそんな力強い言葉に、会場の誰もが酔いしれていた。それ以前の他社の講演など、すっかりと忘れはてて――。




