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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
701/805

  イベント6

「それで、この後どうする?」

 テーブルの上のあまり手をつけられているとはいえない皿を一瞥し、クリスは黒のキャスケットを目深に被り、伊達眼鏡をかけたアレンを覗き込むように顔を傾げる。


 古い教会を改装したフロア内は、ひしめきあうテーブルを埋める満杯の人で溢れている。市街地の中心にあるにもかかわらず、客層は学生よりも年配の地元客の方が多い。アレンがこのカフェを気にいっている理由だ。そしてパステル調のステンドグラスで飾られた窓の下に併設されているアートギャラリーを眺めながら、のんびりとランチを取ることが、このケンブリッジの地に来てからの彼の楽しみのひとつでもあった。



「アレン!」


 吹き抜けのフロアから螺旋階段で上がる二階のバルコニー席の一番手前、階下を見下ろせる手摺りにもたれかかり、じっと壁に飾られた絵画に視線を据えたままの友人を、クリスは少し声を高めて呼んだ。

 きょとんと、やっとアレンの面が持ちあがる。


「今日、どうするって聞いたんだよ」

「え……。うん、そうだね」

「絵を見たいなら下の席に移ろうか? そろそろ空いてくる時間帯だ」

 フレデリックがとりなすように口を挟んだ。

「いや、いいよ」

 アレンはどこかぼんやりとした笑みを浮かべ、首を横に振る。


「ちゃんと食べなよ。そんな顔色をしていると、ヨシノに無理やり口の中に突っ込まれることになるよ!」

 クリスがわざと眉根を寄せて仏頂面をしている。アレンはくしゃりと困ったように笑い、カトラリーを握り直す。


「それは嫌だな」


 その吉野のせいで食欲がないのに、などとそんな理由は誰にも通じない。吉野はこと食事となると、メアリーやマーカスなんて比べようもないほど口煩い。クリスも、フレデリックもそのことをよく知っているから、ちょっとしたことですぐに食欲不振に陥るアレンのこの癖を特に気にかけているのだ。それが自分たちに課せられた義務だといわんばかりに。


 吉野がちゃんと目の前にいてくれさえすれば、食べたくないとか、食べられないとか、甘えたことを言う気なんて起きないのに……。憮然としながら、アレンは今日のお勧めの三種のキノコのタルトレットを切り分け、ニンニクとペカンナッツのソースを絡めて黙々と機械的に口に運ぶ。




 新年を迎え、いったんはケンブリッジのフラットに戻った吉野も、翌々日にはまたロンドンに取って返している。そして間を置かずして流れたアッシャムス破綻のニュース。彼からの連絡はない。こちらからの連絡もつかない。数日してやっと、デヴィッド卿から「心配ないから」の言葉だけをもらえた。

 こんな時、自分という存在は吉野の住む世界からは蚊帳の外で、濃く重く張られたその幕の内側を窺い知ることも、近づくこともできないのだと思い知らされる。そして知ったところで、自分には何もできる事などないのだ、と思わずにはいられなくなる。サウードのように、ともに歩む者に自分がなれる日など遠い夢のまた夢なのだ――。


 そんな惨めな思考に囚われて、すぐにアレンの手も口も止まってしまうのだ。いつの間にかぼんやりと視界が揺らいで。


「アレン、」


 そんな自分に嫌気がさして、アレンの口からはついため息が零れでている。


「アレン、無理して食べなくてもいいよ」

 フレデリックのいたわりの声すらどこか遠い。

「アスカさんのところで、どうせまた食べることになる」

「アスカさん?」

「メール見てないんだろ! 今日はラスベガスの見本市の日だよ! 一緒に中継を見ないかってきみも誘われているはずだよ!」


 クリスの呆れ声に促され、アレンは慌ててポケットを探った。

 段々と光が射すように明るくなるその表情に、クリスとフレデリックは顔を見合わせほっと笑いあう。アレンの鼓膜に直接伝えているに違いない、留守番電話のメッセージかメールの読みあげが、沈み切っていた彼の気持ちを一瞬で引き揚げてくれたことは疑いようがなかったから。


 ようやくアレンはしっかりと自分の皿を見据え、料理を口に運んでいる。飛鳥に逢うのに顔色が悪いと心配をかけたくない――、そんな思いが手に取るように伝わってくる。


「ヨシノに教えてもらった日本風のパン屋さんに寄っていこうか? そこの抹茶ロールが美味しいって彼のお勧めなんだ」

「いいね! それから食後のお茶も。抹茶ラテって、飲んでみたかったんだよ」


 クリスはフレデリックにすぐさま同意する。アレンも口をもごもごさせたまま何度も頷いた。




 すでに食べ終わっているフレデリックは、なにげに階下の、先ほどまでアレンが眺めていた壁際のアートギャラリーを身を乗りだしてしげしげと眺めた。そしてまた、向かいに座る彼に視線を戻し微笑みかける。


「きみもまた絵を描いたらいいのに。ここで発表してみるのもいいんじゃないかな」

「うん」

 アレンはカトラリーを置き、まず水で喉を湿らせてから口を開いた。

「スケッチなんかは今も続けているよ。うん、そうだね、僕も見てもらいたいかな、こんなふうに」

 

 目に映る風景。心を揺り動かす美しい色彩たち。透き通った音のように躍動する光。そんな美しいものすべて、きみに見てもらいたい。僕の見るもののすべてを――。吉野、きみに。


 残っていたサラダを口の中に放り込み終えると、アレンは身体を捻ってロートアイアンの手摺りを握り、薄暗いフロアの床に映り込むステンドグラスの淡い光の乱舞に目を細め、どこか物悲し気にふわりと微笑んでいた。


 




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