イベント3
「アスカちゃん、いる?」
「いるよ、お帰り、デイヴ」
けたたましい声とともに開けられたドアに、飛鳥は訝しげな視線を向けた。
こんな時間に大声をだされては、マーカスさんにお小言を喰らうのにな、と、ちらりと不満がよぎっていたのだ。ヘンリーがこの館にいない間の飛鳥の不摂生は、ヘンリーだけでなく、マーカスとメアリーの悩みの種なのだ。特に新しい取り組みが始まるたびに、やんわりと、だが何度も回数を重ねて子どもに言い聞かすように細々と、彼らは飛鳥の生活態度を改めさせようと注意を促してくるのだ。
そのうえ、今はいないはずの彼までが小言を言う。もうこれ以上は勘弁して欲しい。それが今の飛鳥の心情だった。
そんな彼の心持ちを知らないデヴィッドは、煌々とした照明のしたで床に座して向かいあう飛鳥とヘンリーの映像を見すえ、素っ頓狂な声音で話し続ける。
「呆れた! その顔じゃ、ニュース見てないんだろ!」
「ニュースって、何かあったの?」
「ああ、あのことかな」
映像の方が、よほどしたり顔で頷いている。
「て、ことはサラはもう知っているんだ? それとも重要ニュースはすぐに組み込まれるようになっているのかな」
デヴィッドは相変わらず声のトーンを落とすことなく、興奮した面持ちのまま腰をおろした。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めてようやく大きく息をつく。
「アッシャムス、破綻したんだよ!」
告げられたニュースに何の反応も見せることなく、飛鳥はデヴィッドを凝視した。デヴィッドはそのまま堰を切ったようにとうとうと喋り続ける。
「うちの会社も融資してただろ? 大丈夫なのかって、ひっきりなしに訊ねられてもう、へとへと」
「ヘンリーには……」
「ああ、彼は知っていたよ。ヨシノから事前に聞いてたって。だから影響も損失も軽微だし心配要らないって。まったく、知ってるんなら教えてくれればいいのにねぇ」
アッシャムス……。吉野の夢が――。
飛鳥はデヴィッドの言葉を、なかば夢の中、深い水底ででも聞いているかのように上手く捉えられなかったのだ。
彼には世界が、ぐにゃりと歪んで見えていた。
「アスカちゃん!」
肩を掴まれ、揺すぶられ、飛鳥は虚ろな視線を向ける。
「きみがショックを受けて誤解するんじゃないかと思って、これでも急いで帰ってきたんだよ」
「誤解?」
呟いたのは映像だ。彼の分身として扱われているとはいえ、やはり重要機密事項は教えられてはいないらしい。眉根を寄せた不可解げな映像を、デヴィッドはふん、と揶揄うように鼻で笑った。
「ヘンリー、きみでも知らないことがあるんだね」と、挑発するように問いかける。
「教えられないことは学びようがないさ。いくら高い知能を備えていてもね」
「それで吉野は――、」飛鳥はそんな彼らの会話は耳に入らない様子で、ジーンズのポケットや、辺りに散らばっている図面類をガサガサと跳ね飛ばして、自身の携帯を探している。
「殿下のフラット。記者対策で隠れているって、アスカちゃん」
「アスカちゃん!」
びくりと飛びあがるように震え、やっと自分を見た飛鳥に、デヴィッドはほっとしたように微笑みかけた。
「大丈夫だから! これは計画倒産なんだって!」
「え?」
意味が解らない、と飛鳥は露骨に顔をしかめる。
「経営状態が良くない、て記事は僕も読んでいたから知ってる。でも、吉野のことだから大丈夫だろう、て高を括っていたんだ。だけど、やっぱり立て直しできなかったんだろ?」
あのアブド大臣のせいで――。
せっかく軌道に乗りつつあった吉野とサウード殿下の夢、太陽光発電施設をテロに乗じて破壊したのだ。
自身の欲を満たす、ただそれだけのために!
「そうじゃない。負債額は相当なものだけど、それが理由で潰すんじゃないそうだよ。本物のヘンリーの言うことにはね」
不安に揺らぐ飛鳥の瞳を、安心させようとじっと逸らさずに見つめ、デヴィッドはいつもの、のんびりした口調で言葉を重ねる。
「現行のアッシャムスに融資、提携している米国企業に手を引かせ、欧州のルベリーニ系の企業に乗り換えさせるためだよ。国内に残るアブド大臣の影響力を徹底して削ぐんだってさ」
「でもそれじゃあ……」
倒産させることによって株券は紙くずになる。投資家だけじゃない。雇われていた人たちはどうなる? 融資や技術提携してくれていた米国の企業だって膨大な損失を出すことになるのだ。
飛鳥の脳内で、このニュースが巻き起こすであろう波紋の数々が広がっていた。
いったい、吉野はどういうつもりなのだ――。
「まぁ、しばらくは殿下の国は信用不信に陥ることになるかもね。新規事業とはいっても国有企業だからねぇ、アッシャムスは」
「なるほど、そのせいだね、今日の彼の国の為替の暴落は」
映像が、さも納得といわんばかりに頷いている。
「むしろ、影響ありすぎじゃないのかな? この程度の規模の経営破綻にしては。ここでも、あの子が仕掛けているのかい?」
「ふーん、ちょっとの間にヘンリーらしくなったじゃん!」
デヴィッドが声を立てて笑い、パンっと映像の背中を叩く。彼はビビッとかすかな電子音をたてて歪む。
「乱暴はよしてくれるかな」
映像の歪みではなく、しかめられたその顔に、デヴィッドはまたも吹きだしている。
「なんだかさぁ、本人には絶対こんな態度とれないな、って自分でも思うんだけどね、親近感なのかなぁ、きみには!」
「それは僕にとって喜ばしいことなのかい?」
ヘンリーらしい不機嫌そうな顔も板についてきたな、と飛鳥はぼんやりと彼を見ていた。
心中は、吉野を案ずる思いと、弟のしていることが周囲へもたらす影響が読み切れず、せめぎ合い、心は暗澹と、未来も世界も見通すことができないまま、漆黒の海に溺れているような気分だったのだが――。




