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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  邂逅8

 カウントダウンを前にして室内の灯りを消し、皆一様に窓辺に集まっていた。今はまだ動きのない風景が輝きだすのを、今か今かと待っているのだ。

「なんだか、あのときに戻ったみたいだね」

 窓ガラスに腕を当て、眼下を流れるテムズ川を、そして対岸の大観覧車(ロンドン・アイ)を食いいるように眺めていたクリスは、ふと感慨深そうに呟いた。フレデリックや吉野が、そしてサウードが、ふわりと懐かしげに微笑んで頷く。だがアレンひとり、クリスの言うことが判らずに小首を傾げている。


「お前が米国に帰っていた時だよ。この同じ部屋で新年を迎えたんだ。今みたいにさ」

「きみはアレンの不在を嘆いていたね」

「そうだったかな?」


 クスクス笑いながら相槌を打つサウードに、吉野は素知らぬ顔を向けている。

 

「僕らの友情は変わりなく、あの時は欠けていたきみが、今年はこうしてここにいる。これ以上に嬉しいことはないよ」

「確かに、あの頃からすると奇跡だと思う」


 嬉しそうに頬を緩めたアレンの肩を組んで、クリスは窓外を指差した。


「ほら見て、アレン。大観覧車(ロンドン・アイ)の点滅が始まったよ!」

「じきにカウントダウンだ」



 月も星も瞬かない闇夜だった。散りばめられた地上の宝石が煌めくその中空に、巨大な指輪のような大観覧車(ロンドン・アイ)の環が、青や赤にその色を変えながら、いくつも点滅を始めている。


 皆、口を噤みその華やかな光の環と、背後のビルに映されるカウントダウンの巨大な数字を眺めている。

 だがその中でサラだけは暗闇に光る(リング)よりも、閉じられたままの寝室に続くドアを気にして、不安そうな視線をチラチラと向けていた。


 ヘンリーは、カウントダウンに間に合うように帰ってきてくれた。それなのに、戻ってくるなり深刻な顔をした飛鳥が別室に引っ張っていってしまったのだ。サラにとっては、マーシュコートを出てから久しぶりに一緒に迎えることのできる新年なのに。初めてのロンドンでのカウントダウンなのに。


 こんなもの、けばけばしいスポットライトが虚飾の色で暗闇を照らしているだけだ。何がそんなに楽しいのかまるで理解できない。


 サラは一人窓辺から離れてソファーに腰をおろし、いまだ開かないドアを睨めつけている。






「まさかきみが、セディの顔を覚えているとは思わなかったよ」

 ドア一枚隔てた向こう側では、寝室に置かれた一人掛けのソファーに腰かけたヘンリーが、不愉快さと不安を隠そうともしない飛鳥を安心させようと、努めて穏やかに優しげな声音で受け応えていた。

「忘れられるはずがないよ。あんな嫌な思い……」


 不快な経験ならいくらでもある。だが、あれは違う。頭で理解するのと、実際にあの写真や動画を目にした時の衝撃はまるで違った。自分自身の経験でなくとも許せるような事ではない。思いだすだけで湧きあがってくるむかむかとした吐き気に、飛鳥はまた顔を歪めている。


「彼は自分の行いを反省し、後悔している。心配いらない。アレンは、自分自身の弱さを克服するためにあの場へでたんだ。自らの意志でね。堂々としたものだったよ」

「え? アレンはその彼と、」

「対面して握手を交わしていた。フェイラー家の後継ぎとして、自分の役目を果たしたんだよ」

「フェイラー家の……」

「マシュリク国大使館主催のパーティーだからね。英国の首相になるかもしれない男の嫡男が、フェイラーの人間と友好関係を持てているかどうか、皆、興味津々で見守っているんだよ」

「それじゃ、政治的な意味合いで、彼は――」

「そういう事だろうね」


 飛鳥は頭を振って、深くため息をつく。


「彼は、本当に強いね。僕の方がひとりでおたおたしてしまって……」

「ありがとう。きみの気持ちはあの子も解っていると思う。それに、ヨシノにしても」

 クスリと笑ったヘンリーに、飛鳥は訝しげな瞳で問い質す。

「血相を変えて飛んできていた。きみと同じように、あの子を心配して」

「吉野が――」


 飛鳥はほっとしたようにまた息を漏らした。杞憂だったのだ。自分が考えるよりもずっと彼らは大人で、自分たちの思惑の上で行動しているのだ。傍から見ていると痛々しいほどの想いでも、自分自身で処理し、克服し、自分の足で立つために闘っている。


「アスカ」

 ヘンリーに呼ばれて、つい黙ったまま考えこんでしまい、伏せていた視線をあげた。膝を突き合わせるようにして向かい合っている彼が、自分に手を伸ばしている。彼の弟に関する問題の疑念の解消、大丈夫だという意味合いでの握手なのだと思い、飛鳥はその手を握り返した。ヘンリーはそのまま飛鳥の手を軽く引き寄せて身を屈め、掌に唇をあてた。


「新年おめでとう、アスカ。どうかこのまま幸せに、――サラとともに」


 言い終わらないうちに、暗闇に沈んでいた窓が絢爛と輝いた。己の手を引き戻すのも忘れ、飛鳥は呆気にとられて窓外を見つめていた。


「行こう。サラが待っている」

 飛鳥の手を握ったまま、ヘンリーは立ちあがった。

「ヘンリー、新年おめでとう」

 やっと気がついたか、飛鳥が慌てて早口で告げる。

「おめでとう、アスカ。さぁ」


 もう一度きゅっと握られ、さらりとその手が離される。飛鳥は戸惑いを隠せないまま、向けられた彼の背中に見入っていた。



 開かれたドアの入り口で、サラがヘンリーに抱きついて「おめでとう」と告げている。互いの頬に新年のキスを交わしている。見慣れたいつもの光景だ。


 掌へのキスは?


 口にだして訊くのも憚られ、飛鳥は困惑したままぎゅっとその拳を握りこんでいた。






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