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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
694/805

  邂逅7

 壁際に飾られた花瓶の傍ら、そこに盛られた華やかな彩に隠れるように、吉野がいる。いくつか並べられている椅子に他の利用者はいない。肘掛けに頬杖をつき、緩やかな喧騒に息を殺し、耳を澄ませているかのような無機質な静謐さを湛えて、パーティー会場をいきかう紳士淑女を眺めている。


 そんな彼を、アルバート・マクレガーは、顧客との歓談のまにまに、不思議な面持ちで盗み見ていた。

 見ず知らずの仲ではない。何年振りかの再会とはいえ、パブリックスクール入学以前からの彼を知っている。ケンブリッジの屋敷での彼の兄の婚約披露時には、記憶の中の彼そのままの家族思いで細やかな気遣いに溢れた変わらぬあり様に、同じ屋根の下に暮らした日本での日々が蘇るようだった。

 その同じ少年が、今は、この盛大なパーティーを主催する国家の政府関係者として、この場にいるのだ。

 この不可解さ。そしていまだ記憶に新しい内紛問題の当事者であるにもかかわらず、特に親しい友人以外は、多くが彼を知らないように見受けられるこの不思議さ。


 ああして一人でいる杜月吉野の前を、様々な連中が通りすぎていく。壁の花と変わらない。装飾物のひとつででもあるかのように、誰も彼に気づかない。大人社会に馴染むにはまだ早い、年若い青年がこの賑やかな仮面劇の舞台から弾きだされて、観客席に追いやられている。そんなふうにすら見える。

 

 彼がこの舞台の仕掛け人であるなどと、誰も思い浮かべることすらないのだ。



 その彼の傍らの椅子に、この会場で誰よりも注目を集めている一人が腰をおろした。ロレンツォ・ルベリーニ公だ。

 所属するアーカシャーHDと、欧州金融界を牛耳るルベリーニ家の相互関係を知るアルバートにとっては、特にこの組み合わせは驚くべきものでもない。不思議なのは、あくまでもこの周囲。なぜ誰一人として、彼らに注目しないのかということだ。まるで吉野など、ここには存在しないかのように――。




「ご苦労さんだな、ヘンリーは」

 彼らの近くまで歩み寄ったアルバートに、そんな吉野の呆れたような声が耳に入る。

「こんなおまけの宴会場まで来て、律儀に自分の役をこなしてるんだもんな」

「お前のためだろう?」

 傍らのロレンツォは相手を一瞥するでもなく、独り言ちるように応じている。遠目では会話をしているとは見えないだろう。

「飛鳥の弟だからな」

「そうじゃない。お前が英国の利益につながるからさ。どれだけ個人の思惑のまま自由奔放に動いているように見えても、あいつは根っからの英国人(ブリティッシュ)だ」

 ぼやくような口調だな、とアルバートが微笑んだ時、「そう思わないか?」と、すっと揶揄うような視線が彼自身に向けられた。

「私にはあの方の胸の内は測りかねます」内心の驚愕は押し殺し、彼は当たり障りのない返答を微笑に乗せる。


「で、どこにいる?」

「お部屋に戻られました。じきにカウントダウンですから」

 とたんにロレンツォは声を立てて笑いだす。

「前言撤回だ。英国人の癖にあいつは昔から馬鹿騒ぎは嫌いだからな」

「俺は好きだけどな。英国人じゃないけどさ」

 吉野も、肩を震わせて笑っている。


「でも、十二時の鐘が鳴る前に退散するかな。魔法が解けちまうからさ」

「ガラスの靴を置いていっても、俺は探さないぞ」

「俺の靴に懸賞金をかける奴ならいくらでもいるよ。それよりさ、お祭り好きのイタリア人に朗報だよ。ビッグベンの鐘が鳴り終えたら、でかい祭り(イベント)が始まるよ」


 笑いながら立ちあがり、「良い年を」と吉野はロレンツォと握手を交わした。そしてアルバートにも同じ言葉を投げかけ、人混みをぬうようにして行ってしまった。


「宗主、失礼をお許し下さい。今の謎掛けの意味はどういうことでしょうか? それになぜ、誰もが彼を知らないように見えるのでしょうか?」


 夢を見ているのか、それとも夢から覚めたのか判らぬまま、アルバートはぼんやりと、たった今まで吉野の座っていた椅子を見遣り、その傍らのルベリーニ一族の長に視線を移す。


「サウード殿下には、有能な外国人アドバイザーがついている、これは周知の事実だ。だがそれがあいつだとは、まったく知られてないのさ。不思議だろうが覚えられないんだ。この国の民族衣装を着たあいつは、今のあいつとは別人になる。あの外見に見誤るなよ。肝を据えてかかることだな」



 あれが、ルベリーニ一族の抱える爆弾であり、印を持つ者の選んだたった一人のさらなる飛躍をもたらす翼でもある。


 それを同じ一族の者であっても、ヘンリーの秘書でもある眼前のこの男に告げる訳にもいかず、ロレンツォは皮肉げに口の端で嗤うに留めた。

 アルバートは神妙な視線をロレンツォに返すとあるべき顔に戻って、「お言葉、ありがとうございます」と一礼してその場を辞し、自分のいるべき場所に戻っていった。



 ひとりその場に残ったロレンツォは、苦虫を嚙み潰したような顔をして談笑に興じる華やかな連中を眺めながら、吉野の置いていった言葉の意味を模索する。







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