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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  邂逅5

「何、飛鳥?」

 傍らでいきなり呟かれた訳の判らない吉野の言葉に、キャルは不愉快そうに眉根を寄せた。訳は判らなくとも何を意味するのかは解っているのだ。直接手動で操作する必要のないTSネクストの電話機能だ。自分を無視したこの電話を終わらせようと傍らの腕をぐっと引き寄せたにも関わらず、吉野はおかまいなしで彼女に背を向け話し続けている。


「ヨシノ、」

 とうとうキャルは声にして呼びかけた。と、するりと腕をぬかれて露骨に煩そうな眼つきで一瞥された。吉野は人混みをかき分けてひと気のない窓辺へと足早に進んでいく。エスコートしているはずの彼女を、ただ一人この場に残して――。


「ヨシノ!」

「お兄さんからだよ、大事な話なんだ。邪魔するなよ」


 声を荒げた彼女を宥めるためなのか、馴れ馴れしげな腕が断りもなくに肩に回される。キャルは虫唾が走るのを感じながら、さりげなく身体の位置を変えてその腕を払った。彼女は憎々しげに、口許を締まりなくニヤつかせているロバート・カールトンに嫌味をぶつけた。


「私よりも大事なの?」

「そりゃそうだろ。アスカ・トヅキだぞ! 今世紀最大の経営者に成りえる、きみの兄上が惚れこんだ天才発明家じゃないか!」


 その兄のバックアップがあるから、天才でいられるんじゃないの!


 そう言い返したかったけれど、この浮かれた男には何を言っても無駄に思えた。今までこの自意識過剰の自惚れや(カーキー)と、会話が成り立ったことなどないのだ。


「まぁ、気にするなよ、すぐに戻ってくるさ。僕もまだろくに彼と話せていないんだ。せっかく、わざわざイギリスくんだりまで出向いてきたってのにさぁ。彼って、忙しすぎるんだよねぇ。いつも何やってんだろ? ねぇ!」


 私の方がよほど訊きたいわ。と、思わず応じそうになったのを呑み込んで、キャルはぷいっと顔を逸らし、遠目に見えた、つい先ほどまで向かい合っていた男に視線を据えた。


 もう一人の兄ともいえるあの男は、兄と並んでいても遜色ない気品と威厳、そして一種の傲慢さと溌剌とした明るさを兼ね揃えた貴公子だった。それなのに、兄が現れた途端に彼の上に浮かんだあの卑屈さは、なんだったのだろうか。自分という存在のことで、あの(ひと)(ヘンリー)に引け目を持っているのだろうか。


 血の繋がりさえなければ、充分に興味をそそられる容姿なのに。しょせん、醜い男でなくて良かった、とその程度にしか考えようのない存在だけど――。



 と、そんな彼女の視界の先で、吉野が人混みをぬって、その男セドリック・ブラッドリーの方へと向かっていた。電話はもう終わったのだろう。それなのになぜまっ直ぐに自分の許に戻ってこないのか、とキャルはまた腹立ちをこめてその背中を睨みつける。そうしたところで、吉野は振り返ることもない。傍らでさかんに話しかけているロバートを尻目に、彼女は吉野の後を追った。



「アレン、来い。サウードがお前に逢いたがってる」


 いつの間にかできていた人垣の向こうには、蒼白な面で佇んでいる彼女の弟の姿があった。立っているのがやっとという風情でありながら、その場にいる誰よりも違和感なく、美しく、タキシードを着こなしている。その顔色の悪さ、生気のなささえもが、彼の人間臭さを感じさせない神秘的な相貌を演出するのに一役買っているようだ。

 だが幼い頃から彼を知っているキャルには、その姿が他人の同情を惹きたいがための、過剰な演技のように思えて不愉快でならない。


「すぐに行く。でもヨシノ、ちょとだけ待って。こうして先輩にお会いできたのだもの。ご挨拶したい。――お久しぶりです、ブラッドリー先輩」


 差しだされた手をセドリックがぎこちなく握り返す。彼は伏せたままの面をあげようともしない。それよりも、彼らの傍らにいる吉野の苛立たし気な様子がキャルは気になった。「ヨシノ!」と、人垣を掻き分ける。



「もういいだろう?」

 その声と同時に、アレンの肩を強引に引き寄せる吉野の姿が彼女の目に飛びこんでいた。だが彼はキャルを一瞥すると、その存在など何の意味もないかのように踵を返し、アレンの肩を抱いてその場から立ち去ったのだ。


「おーい、ヨシノ!」

 ロバートの間ぬけた声が、虚ろに響く。

「まいったなぁ。きみの弟を紹介して欲しかったのに! まぁ、殿下のお呼びじゃ仕方ないか! それにしても、噂に違わぬ綺麗な子だねぇ。さすが、きみの弟だけあってさ!」


 そんな能天気なその物言いがますます癇に障って、キャルは眉根を寄せたままセドリックに歩み寄り、すっと作り笑いを浮かべて彼の腕にその手を添えた。


「ねぇ、この会場ってお酒は置いてないんでしょう? 退屈だわ。飲める場所はないのかしら? 一緒にぬけださない?」




「お前、何しに来たんだ? 来るなって言ったのに!」

「彼に逢うためだよ」

「あいつにか?」


 パーティ会場からいったんひと気のない廊下に出、周囲からの死角となる観葉植物の陰で吉野は足を止めていた。しかめっ面のまま、緊張でじっとりと汗をかいているアレンの頭皮に風を通すように、柔らかな金髪に指を差し入れかきあげる。


「あんまりむちゃするなよ」

「ありがとう、ヨシノ。でも僕は、」

「お前は強い。ちゃんと知ってる。弱いのは俺の方なんだ。だから、俺がつらくなることはするな」

「一生彼を避けて生きていく訳にはいかないよ。僕は、」

「フェイラーだからか?」


 苦痛の色を湛えて覗きこんでいる鳶色の瞳に、アレンは鮮やかな笑みで応えた。その肩に吉野は顔を埋め、深い息をかける。アレンは静かに彼の背中に腕を回した。


「ありがとう、ヨシノ。僕は大丈夫。彼に感謝したいくらいだよ。あの事件で僕はきみを知ることができた。僕に起きた全てのことが、きみとこうして向きあえるための道筋なら、あれは僕の傷じゃない。僕を傷つけることができるのは、きみだけ。きみだけなんだよ」






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