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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  邂逅3

「そう、天使くんも来ているんだ」

「ええ、会場にはいませんがこのホテルに泊まっているんです。ここにはね、彼の姉が来ていますからね。喧嘩しているから逢いたくないって! 残念がっていましたよ」

 わずかに目を細めて耳を傾けているケネス・アボットに、クリスは声をひそめて話し続けている。


 エリオットの卒業生である、ということは、彼らの生きる社会で歴然としたひとつのステイタスだ。大学に進学し、社会にでてからもそのコミュニティは継続される。だからOBたちは、卒業後も行事のたびに母校を訪れ、自分たちの青春をかけた部活動に何くれと目をかけ後援する。


 だがここにいる彼、ケネス・アボットは違った。奨学生(キングススカラー)の宿舎であるカレッジ寮寮長、そして生徒会総監まで務めながら、卒業後の母校を訪れることは一切なかった。その類まれな頭脳と公明正大な正義感で、多くの生徒の規範となり、愛されていたのにもかかわらずだ。


 だから余計に、彼を前にした二人の後輩にとって、この予期せぬ再会は嬉しくて堪らぬものになっていたのだ。クリスにとっては、彼は歴代の寮長の誰に勝るとも劣らない尊敬に値する人物だったし、フレデリックにとっては、彼の存在はそれに輪をかけて特別なものであったから。


 兄の親友でいてくれた人――。


 彼は、学年は違えど、兄が亡くなった後も変わらず兄を信じ、吉野とともにその死の真相を追い続けてくれた人なのだ。尤も、その吉野と彼とは、仲が良いのか悪いのか判らない微妙な関係ではあったのだが。


「ヨシノとはもうお逢いになられましたか?」

 歓談中だというのに、懐かしさからふと物思いに沈んでしまっていたフレデリックが、思いだしたように口を挟んだ。

「銀ボタンくんか!」

 とたんにケネスの口許が楽しそうに緩む。細められた、一見鋭く、冷たく見える双眸に優しげな光が射す。

「来ているのは聴いてる。でもまだ顔は見ていないな」

「ヨシノ、どこに行ったんだろう? アレンのお姉さんをエスコートしているんですよ」

「天使くんの?」


 フレデリックは、それにクリスも、キョロキョロと辺りを見回してみたが、大勢で賑わう会場内で目当ての相手を見つけるのは難しそうだった。


「ええ、キャロライン・フェイラー。アレンにも、ヘンリー卿にも似ておいでですよ」

「そう。そんな美人ならぜひお目にかかりたいな。銀ボタンくんにも。あ! 失礼、きみも銀ボタンだったね」

 自身の失言に軽く眉をよせ、ケネスはフレデリックの肩を叩く。

「いえ、かまいません。三年連続銀ボタンの快挙を成し遂げたのはヨシノだけですから。その呼称に相応しいのは彼しかいません」


 心からそう思っているのだと、フレデリックはにこやかな笑みを湛えている。


「きみたちの仲も変わらずなんだね」と、ケネスは少し首を傾けてクスクス笑った。

「僕たち、今も一緒に住んでいるんです。大学の近くにある知人のフラットを借りて。ヨシノは、サウードの国へ行ったり来たりですけど」

 

 吉野の近況を話し始めるクリスを尻目に、フレデリックは説明できない、不安とも不満とも思えるもやもやと湧きあがる思いを感じていた。


 ケネス・アボットは、自分にとって恩人ともいえる人だ。エリオットを卒業し、彼がオックスフォード大学に進んでからは交流が途絶えていたとはいえ、クリスマスカードは送っていた。彼の方からも、律儀に返礼のカードがきている。


 エリオット校の生きる立法とまで言われていたケネス・アボット。自由奔放な吉野とは対立することも多かったと記憶している。どちらも自分の規範を曲げないからだろう。彼らは決して、目に見えて争っていたのではないけれど――。

 

「アボット寮長は、最終学年でしたね。卒業後の進路はもう決めておいでですか?」

「きみたちの大学へ。院に進んで、ハワード教授に師事したいからね」


 ああ、やはり、とフレデリックもクリスも、喜色を湛えて大きく頷く。


 エリオット卒業後、誰もが、ケネスはケンブリッジ大学に進むものと思っていたのだ。吉野と同じ数学科のハワード教授に師事するもの、と。だから蓋を開けて、オックスフォード大学に進学したと聞いた時には、色んな噂が飛び交ったものだった。


 傍らのクリスをちらと見やり、フレデリックは声を落としてケネスに姿勢を傾けた。


「その節はお世話になりました。ずっと気になっていたんです。その後、彼らは……」

「遺恨を残さず、立派に更生しているよ」


 晴れ晴れとした笑顔でケネスは応えた。この質問をされることを予期していたのだろう。若干唐突に訊ねられたのにもかかわらず、驚きの色は浮かべなかった。むしろ、彼の方がフレデリックに訊ねたかったのかもしれない。


 恨んではいないか――、と。


 フレデリックは、心からほっとしたように微笑みを返す。


「よかった。お聞きして、胸のつかえがとれました」



 アレンの誘拐事件、そしてそこから炙りだされたエリオット校に巣くっていた麻薬事件を解決に導いたのは、吉野と彼、ケネスを始めとする当時の生徒会役員と監督生だった。だが、その事件の首謀者はケネスの友人でもあったのだ。彼は生徒総監としてその友人を断罪し、放校に処した。そしてその後、その友人を支え更生させるために自らの進路を変更したのだ、とそんな噂がまことしやかに囁かれていたのだ。


 そして、ようやく本来の道を歩むべく、彼は立ち返るのだ。これで、やっとあの事件は本当の終わりを迎えることができたのだ、とフレデリックは心の底から安堵する。


 事件の首謀者たちを恨んでなどいない。彼らこそが一番の被害者だったのだから――。


 残された兄の日記から、そして小説を書きあげるための自身の調査から、フレデリックはずっとそんな思いを深めていたのだ。

 吉野のように、徹頭徹尾、彼らを切り捨ててしまうことなど彼にはできなかった。そして彼は、この辺りの考え方の違いからケネスと吉野は袖を分かったのではないか、と推測していたのだ。本人にあえて確かめることはなかったけれど。


 だが眼前にいるケネスは、懐かしそうな笑みを湛えて吉野の話題に熱心に耳を傾けている。自分たちを厳しく、そして大らかに見守ってくれていた寮長だったあの頃のままに。


 昨日のことのようにも、遥か昔の記憶のようにも思える甘酸っぱい感傷が、彼の胸中に沸き起こっていた。この同じ思いを、クリスも、そして彼も味わっているのだろうか、それとも自分だけなのだろうかと、フレデリックはわずかに羞恥を覚えながら、視線を煌びやかな色彩で彩られたフロアに移す。

 そして考える間もなく、目に飛びこんできた人影に向かって高く腕を挙げていた。


「ヨシノ! ここだよ!」


 声を張りあげ、振り向いた相手に呼びかけたのだ。



 




第六章 迷路 辺りの事件の話です。

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