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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  ガイ・フォークス・ナイト4

「ハーイ! アスカちゃん!」

 すっとんきょうな声に飛鳥が目線を上げると、技術室の中庭に面した掃きだし窓にデヴィッドがニコニコ笑いながら立っていた。放課後とはいえ、誰もが催し準備で忙しく立ち働いている時間帯だ。前を通る人さえいなかったのに、と飛鳥は訝しく思いながら、「ハイ、デヴィッド。どうしたの?」と作業の手を休めることなく声だけで返事する。


「冷たいなぁ。きみの様子を見にきたんだよ! 調子はどう? 進んでる?」

「きみの方こそ、こんなところで油を売っていていいの?」

「僕の出番は今日はないんだ」


 デヴィッドは技術室の中まで入ってきて、適当な椅子を飛鳥のすぐよこに引っ張ってきた。後ろ向きに跨いで腰かけ、だらりと背もたれに肘をついて顎をのせ、首を傾げて飛鳥を見上げる。


「つまり、暇なのさ」


 彼の寮は、『リア王』の劇をするそうだ。彼の役はコーディリアで、「重要な割に出番は少ないんだよねー」と、デヴィッドは嬉しそうに笑っている。要するに、この出し物は、彼にはかったるいということらしい。


「僕も見たいな。何時から? うちと時間がかぶらなきゃいいけれど」

 飛鳥は広い作業台の上で段ボールの長さを正確に測り、一枚一枚切り出しながらしゃべっている。

「3時まで仮装行列で、その後すぐ3時半からだよ。きみのところは?」

「5時半から」

「じゃあ大丈夫だね。絶対に来てよ」

 デヴィッドは上目遣いに飛鳥を見つめて、蠱惑的な笑みを浮かべる。

「行けたらね。準備もあるし、約束はできないけれど」


 デヴィッドはその返事に不満そうに唇を尖らせた。だがすぐに、「それできみ、何を作っているの?」と、飛鳥の手元に興味を移す。


「試作モデルだよ。明日フォグマシーンが届くんだ。まずは、これで簡単に型を作って動作させて調整してから、正式製作に移るんだ」

「びっくりした。これがきみの作品かと思ったよ!」


 飛鳥の足元に置いてある、段ボールとビニールをガムテープで張り合わせたいくつもの小汚い箱に、デヴィッドは形の良い眉をひそめ不快気な視線を浴びせて、忌々し気に呟く。


「本作もそんなに変わらないと思うよ」

 飛鳥は手を動かし続けながら、苦笑する。

「そんなの、ヘンリーが許さないよ」

「なんで、そこで彼がでてくるの?」

 デヴィッドは、しまったという顔をしてそっぽを向く。

「だって……、ヘンリーは完璧主義だもの」

 間をおいて、もごもごとした小さな声が飛鳥の耳に届いた。


「彼は僕が作っているものの事、知っているよ。とくに何も言われなかった。彼が完璧主義なんじゃなくて、きみ達が彼に完璧を求めているだけじゃないの?」

 飛鳥は顔も上げず作業を続けながら、淡々と訊ねる。


「ヘンリーは、ぼくらの理想で、夢で、希望だもの!」


 図星を突かれて動揺したのか、デヴィッドは、やけになって声を荒げ、早口で飛鳥に食ってかかる。


「ヘンリーは、いつだって先頭に立って,僕らの道を切り開いて来てくれたんだ! 僕も、アーニーも、ヘンリーのおかげで夢を追うことができるようになったんだ。ヘンリーに、カッコ悪いマネさせたり、恥をかかせたりするようなマネをしたら絶対に許さない!」


 最後の方では、デヴィッドは瞳を潤ませて涙を堪えるように唇を震わせていた。飛鳥は作業の手を止め、彼の真っ直ぐな視線を受けとめた。


「そんなに酷いかなぁ、これ……」

 デヴィッドの頭をくしゃりと撫で、飛鳥は少しだけ自嘲気味に笑う。

「きみはヘンリーのこと本当に好きなんだね」


 デヴィッドの一途な瞳は日本にいる飛鳥の弟を思いださせ、錯覚させてしまう。


 飛鳥はつい慰めるように彼の背中をふわりと抱き締めていた。


「僕らは、彼のこと、塩のように愛しているんだ」


 デヴィッドは飛鳥にもたれかかって、ひたいを押しつけた。肩が小刻みに震えている。泣くのをぐっと我慢しているのだろう。飛鳥はデヴィッドの背を軽く叩き、撫でてやった。


「彼を見ていると不安になるんだね。いつだって突っ走っているものね。言ってやりなよ。“紳士とは歩く者のことであって走る者のことではない”って」


 デヴィッドは、ははっと笑った。


「ヘンリーはちゃんと分かっている。きみたちといる時は空気が違うもの。きみが彼を想うように、彼もきみ達を大切に想っているって、感じられる」

「知っているよ、そんなこと」


 デヴィッドの拗ねた呟きに、飛鳥は、ふふっと笑い返す。


「でもそうだね、きみの言う通りだ。彼ががっかりしないように、僕も頑張る。もう少しお金をかけて、見栄えのいいケースを作るよ。それでいい?」


 飛鳥は彼を体から放して、優しく顔を覗き込んだ。デヴィッドは、照れくさそうに頷く。


「それに……、そんなに心配なら明日も見にきてくれる? ここじゃなくて寮の倉庫に。それを見て、カッコ悪いかどうか教えてほしい。きみ達もおいでよ! 感想が聞きたいんだ!」


 飛鳥は、掃きだし窓の隅に隠れるように立っていた下級生に、大きな声で呼びかける。それからふと小首を傾げ、デヴィッドを振り返った。



「ところでデヴィッド、塩のように、ってどういう意味? 英国ではよく使う表現なのかな?」





“紳士とは歩く者のことであって走る者のことではない”

A gentleman will walk but never run


Sting 『Englishman In New York』の一節です。

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