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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
679/805

  壁8

 デヴィッドを伴って書斎へ移ったヘンリーは、ソファーに腰を下ろすなり盛大なため息をついていた。

「あの殿下、いったいどういうつもりなのだろうね?」

「サウード殿下よりも、問題はあれだよ、あれ!」

 自分以上に苦虫を嚙み潰したような顔をしているデヴィッドをちらと見遣り、ヘンリーはくすくすと含み笑う。


「なかなかインパクトのある男だっただろう?」

「『愛』の漢字Tシャツにブルックスブラザーズのジャケットだよ? この冬の最中に! おまけに裸足にスニーカー! 僕たちの店舗にあのいでたちは確かにインパクト大だったよ。中身がまったく記憶に残らないほどにね!」


 デヴィッドの辛辣な物言いに、ヘンリーはますます表情を緩めている。

「どうやらきみは彼のことが相当お気に召したらしいね」

「記憶に残る程度にはね!」

「おかげで、ますます殿下のご招待を断れなくなったよ」

 わずかに肩をすくめる彼の様子には、苛立たしさよりも、ただただ面倒くさがっている様子が見てとれた。


「何だかきみも覇気がないねぇ。まだ立ち直れない?」

「そんな事はない」

「どうだか」


 心配しているのか嘲笑っているのか、デヴィッドの皮肉な口許からヘンリーはついっと視線を逸らし、出窓の縁へ移動して外を眺める。


「雪になりそうだよ」


 デヴィッドは応えない。ただ顔をしかめたまま、何もない深紅の壁を眺めている。だがかなり経ってから、ふと我に返ったように頭を反らせて彼を呼んだ。


「ヘンリー、雪景色の花火もオツなものだろうねぇ」





 同じ頃、ケンブリッジの館のパソコンルームで、飛鳥と並んでキーボードを叩いていたサラの指がぴたりと止まった。


「え?」


 機械仕掛けの人形のように頭が弾かれ、飛鳥の方へ向いている。ペリドットの瞳が大きく見開かれている。吸い込まれそうなその瞳から逃れるように飛鳥は目線を伏せる。


「殿下がね、きみの病気の事とか考慮して下さって。パーティーへの参加は無理にしても、花火だけでも楽しまないかって」

「ヘンリーはなんて?」

「きみの意志に任せるって。それに彼も同じホテル内にいるからさ。殿下主催のパーティーに出席するんだ。アレンやデイヴも一緒だし、皆で、」


 叫び出さないように両手で口許を押さえ、サラは大きく肩で深呼吸する。一回、二回、三回と……。


 パーティー会場になるホテルのスィートルームを、サウードは年間契約で借りている。「部屋から正面にビッグベンの花火を見ることができるから、パーティーへの出席は無理でも花火を楽しみにこないか」、と招待された。


 飛鳥は確かに、そう告げたのだろうか? 

 サラは、心の中で今聞いたばかりの言葉を何度も反芻していた。



 ケンブリッジに移ってからというもの、新年をヘンリーと迎えたことはない。飛鳥はいてくれたけれど。静かにテレビ画面に映る花火やニュースを見て過ごすのが常だった。

 サラにしても、人でごった返すというサウードのパーティーに出席したい、などとは思わない。けれど、ヘンリーや飛鳥と一緒にテレビで見るような花火を肉眼で見て、誰よりも早く「新年おめでとう」と伝えることができるなんて。花火よりも何よりも、それが許されるという事が、なぜだか信じられない。



「ヘンリーに確かめてくる」


 それだけ喉の奥から絞りだすと、サラは、ぱっと駆けだしていた。その背中を見送り、飛鳥は小さく吐息を漏らす。


「ヘンリー、ヘンリーだなぁ、今さらだけどさ……」

 

 回転椅子をくるりと回す。視界に入るコンピューター室の窓外は、重く鬱蒼とした灰色の雲に覆われている。飛鳥はぼんやりとその鈍色に視線を据えた。


「英国の空だなぁ、いつまで経っても……」

 

 何も変わらない。永遠に変わらないのではないかとすら思わせるその重さが、真綿に締めつけられるように呼吸を圧迫する。飛鳥は、自分自身を確かめるように大きく息を吸い込んだ。




 書斎のドアを開けたとたんに室内とは思えないようなかけ離れた冷気にさらされ、サラはぶるりと身を震わせる。

「ああ、すまないね。煙草を吸っていたから、空気を入れ替えていたんだ」

 だが窓辺に腰掛かけていたヘンリーの笑顔は、いつもと変わらず温かい。サラはつい興奮しすぎてはやり立つ心を落ち着けるためにも、口許に持ちあげた拳をきゅっと握りしめる。


「ヘンリー、」

「アスカから聞いた?」

「私も行ってもいいの?」

「もちろん。新年は皆で、ロンドン名物の花火を眺めながら迎えよう」


 飛鳥と二人で迎えるといい。

 と、言うべきところなのだろうが、そこまで広い心は持ち合わせていない。せいぜいサウードに頑強な警備をお願いし、このありがた迷惑がサラにとっての楽しみになるよう、すり替えるしかない。


 サラに背を向け、彼は大きく開け放たれていた窓を静かに閉める。もう一度振り返りサラに眼を留めたとき、彼女はなぜか戸口に立ち尽くしたまま、ただただじっと彼を見つめていた。


「部屋が温まるまで時間がかかりそうだよ。下でお茶にしようか。きみが風邪を引くといけないからね」



 すっと笑みを刷くヘンリーの伸ばした手を握り返し、サラはほっとしたように頷き、微笑み返した。






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