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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
678/805

  壁7

 コンサバトリーのドアを開けるなり、アレンは華やかな笑みを咲かせた。


 目に飛び込んできた文字は、「禁煙」そして「成長」「拡大」「前進」……。空中をふわふわ飛び回る単語群に、目が追いつかないでいる。


「数字に続いて、今回は単語ですか?」

「書初めだよ、新年の抱負をこうして文字にして心に刻むんだよ!」


 振り向いた飛鳥は、頬を紅潮させ息を弾ませて、まるでスポーツでもしていたかのようだ。


「さぁ、きみも書いて!」


 空中を所狭しと埋めつくし、流れに浮かぶ泡沫(うたかた)のようにゆらゆらと漂っているアルファベットの語群。そのきらきらと輝く蛍光色の文字を擦り抜けて、アレンの手の中に太目のマーカー大のタッチペンが放られる。


「おっと!」

 受け損ない、取り落としそうになったアレンの横で、デヴィッドが危うく上手く受け止める。


「アスカちゃん、投げちゃダメだよ! 試作品第一号だよ、替えがないんだから!」

「店舗用は?」

「あれはあれ、これはこれ!」

「はは、でもそれ、かなり仕様を変えちゃったよ。デイヴ、書いてみて」


 デヴィッドがペンをノックすると、眼前にカラーパレットが現れた。メタルカラー仕様の金を選び、宙に指を躍らせる。


「エコノミーをエコロジーへ、デヴィッド、と」さらさら自分の名前をサインする。書き終えて、ダブルノックでペン先を引っ込めると、書かれた語群はするりと文字群に飛び込み、ゆっくりと流れに沿って室内を対流し始める。


「わお!」

「僕は、絵が描きたいなぁ」


 呟いたアレンに、デヴィッドは手の中のペンを手渡した。

「仕様が変わった、て多色使いできますか?」

「途中で色を変えたい時には、ノック一回でまたパレットがでるよ」


 瞬く間に、赤や金の錦鯉が数匹、アルファベットの狭間に跳ねながら泳ぎだす。


「睡蓮の池の鯉です。鯉って、おめでたい魚なんですよね?」


 そうだっけ? と飛鳥が首を捻っている横で、「残念! 近いけどねぇ~。めでたい魚は、鯛だよ!」と、デヴィッドがちっちっと、人差し指を立てて振る。

「タイ……」

「確か、鯉も祝い魚だったはずだよ。吉野が何かのお祝いに鯉こくって、鯉を煮たのを作ってくれたことが、」

「食べるんですか! あんな綺麗な魚を!」

「ここにいるような、鑑賞用の錦鯉と食べる用の鯉は、また違うんじゃないかな」

 自信なさげに飛鳥は首を傾げている。


「泳ぐ宝石と言われている錦鯉だよ。食べてしまうのは勘弁して欲しいな。ゴードンが可愛がっているしね」

「いや、うちのを食べるって話ではなくて、」


 煌びやかな文字のくるくると回り続ける走馬灯のような空間の向こうから、ヘンリーの笑いを含んだ声が聴こえる。


「ヘンリー、いたんだ!」


 デヴィッドは頓狂な声をあげてソファーに飛びこみ、アレンもおずおずとそれに続いた。




「やっぱり、アスカちゃんだねぇ。ただ空間に書初めするよりもずっと面白いよ」

「言葉が生きているみたいです」


 彼らは瞳を輝かせて、中央の水流を眺めている。

 まるで言葉が、巨大な目に見えないガラスに区切られた水槽の中を自由に泳ぎ回っているようだ。生き生きと命を得たように。


「僕はアレンの鯉が気に入ったよ。魚や、鳥や、邪魔にならない程度に加えてみるのもいいんじゃないかな。ほら、海の青とも空ともつかぬ青の中を、自由に駆け巡る感じでさ。新年の抱負って感じがする」


 ヘンリーの思いがけない称賛に、アレンは嬉しそうに頬を染める。


「鳥は――。鷹かな。新年だからねぇ!」

「どういう関係?」

「一富士二鷹三茄子ってぇ、日本のお正月の縁起物だよ!」

「縁起物、といえばそうだけど、あれは初夢の、」

「鷹! ヨシノの飼っているような? かっこいいですよね!」


 アレンはもうペンを掴んで、ソファーから腰を浮かせている。

「二羽描いてね、二鷹だから!」

「いや、あれは、」


 二番目に、って意味で二羽な訳では……。まぁ、いっか。


 デヴィッドに後押しされてそそくさと描き始めるその背中を、飛鳥は仕方ないな、と苦笑して見守った。日本語の掛詞の縁起物を、英語での書初めに加えても意味をなさないのでは、と内心では首を捻っていたのだが。


「少し高い位置に飛ばそうか」

 描きあがった二羽の鷹を眺めて、飛鳥は手許の投影装置の設定画面に視線を落とした。


「後は、富士と茄子だねぇ」

「もういいって」

「壁にさぁ、初日の出の場面でも投影する? 荘厳な感じの。一月半ばまでの限定でさ」


 飛鳥の呟きはデヴィッドの耳には入らないらしい。茄子をどうするか、と真剣に考えている横で、飛鳥も彼の言葉をイメージしてみる。


 茄子はともかく、日の出はいいかもしれない。吉野のいた砂漠の街をイベントに使った時も、朝日と夕日の場面は特に好評だったのだ。


 各々が自分の想像の中に埋没しそうになる前に、ヘンリーはコホン、と軽く咳払いをして注意を喚起した。


「それでアレン、話って何? 明日の予定のことだったよね」


 そうだ。このディスプレイの視聴のためにここに来たのではなかったのだと、アレンは浮きたっていた心を沈め、兄の前で居住まいを正した。



 




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