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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
677/805

  壁6

「アスカ、ちょっといいかな?」

 開かれたままのコンピューター室のドアを軽くノックする音に、飛鳥は急ぎ振り返る。

「ちょうど良かった、ヘンリー。僕も訊きたいことがあるんだ」

 でも、ちょっと待って、とすぐに画面に向き直り、キーボードに指を走らせる。

「ん。とりあえず終わり」

 軽く息を漏らして立ちあがり、苦笑いを浮かべた。


「お茶にするかい? 忙しいなら作業しながらでいいよ。ちょっとした確認だけだから」

「じゃあ、コンサバトリーでいいかな? 今、手直しした分を実寸で見たいんだ」

「かまわないよ。何の手直し?」


 自分と肩を並べて廊下を歩く飛鳥に、ヘンリーは穏やかな笑みを向けて訊ねている。



 日本に帰りたい、と言っていたのが夢だったのではと思えるほど、婚約パーティーを終えてからの飛鳥は落ち着いている。やはり吉野が一時的にせよ、こうして帰ってきているからだろうか。久しぶりに家族が揃って顔を合わすことができたのが、安心感につながったのだろう。

 あるいは、吉野の描くビジョンについてサウード殿下と直接話し合ったことで、胸中の不安が払拭されたのが最大の理由だろうか。


 そのどれもが、自分と飛鳥の間に横たわる問題としては、間接的なものにすぎないけれど。それでもラスベガスでの見本市を控え、忙殺されて顔を合わすことすらできなかった数日間に飛鳥に起こった緩やかな変化を、ヘンリーはほっと安堵して見守っていた。


 吉野はロンドン滞在中のサウードのもとにいることが多いとはいえ、数日おきに顔を見せに戻ってくるし、ハワード教授のもとでの論文作成もおろそかにはしていないらしく、学生の領分を取り戻しつつある。


 結局は、飛鳥の機嫌は吉野次第なのか、と思うとヘンリーには面白くないことではあるが……。


 ともあれこれで年末のパーティーさえ何事もなく終えれば、気力を充実させてラスベガスを迎えられる。少なくとも、帰国した時に飛鳥がいない、という危機だけは脱したのだから。




 TS投影装置の準備を終え、ようやくソファーに腰を下ろした飛鳥のために、ヘンリーは丁寧にお茶を淹れた。この穏やかな時間が至福であるといわんばかりの笑みを湛えて。


「それで何? 確認って」

「うん。ニューイヤーの予定は?」

「サウード殿下に大使館主催のパーティーに誘われてる」


 紅茶のカップを口に運んでいたヘンリーの手が止まる。

 新年を明後日に控え、もう何事もなくこのまま本年を締め括れそうだ、と思った矢先にこれだ。内心の舌打ちを気づかれないように微笑みを湛えたまま、彼はわずかに首を傾げてみせた。


「ああ、僕も誘われている。サラと一緒に招待を受けるの?」

「え!」

「公に婚約発表している訳だからね。そういう席では同伴するのがマナーだよ」

「そんな、いきなり……」

「僕としても、サラにはもう少し時間をかけて、人慣れしていって欲しいんだけどね」


 柔和な表情を崩さないまま飛鳥を見つめるセレストブルーの瞳に、サラへの優しげな、兄らしい気遣いを見てとり、飛鳥は残念そうに肩を落とした。


「ごめん。彼女のことまで気が回ってなかった。吉野のお世話になっている方たちにご挨拶できるいい機会かな、って思ったんだけど。サラに無理はさせられないよ。そのパーティーって、かなりの規模なんだろ?」

「おそらくは。僕も参加は初めてなんだ。ヨシノに訊いてみるといいんじゃないかな」


 殿下がどんな思惑で飛鳥に声をかけたのかは知らないが、そんなことを吉野が許すはずがない。と胸の内で思いながら、ヘンリーはあくまでも穏やかな口調で続ける。


「僕はそのパーティーの後、すぐにニューヨークなんだよ。見本市までまた長期に留守することになるし、きみたちの予定を確認しておきたくてね」

「ああ、うん、そうだね。ロバート・カールトンにロンドンの本店で偶然に逢ったんだよ。それで、彼、店舗を通じて僕に面談を申し込んでいるらしくて。吉野の手前、どうするべきなんだろう? きみ、彼らの立ち上げるビジネスに賛同するようなことを言ってただろ?」


 一瞬、ヘンリーの瞳の中に苦虫を嚙み潰したような嫌悪感を見て、飛鳥は、ああ、やっぱり、と内心安堵の吐息を漏らす。


 口先では好意的に思えることを言っていても、このヘンリーがああいったタイプを評価するとは思えなかったのだ。いや、人は見かけによらないともいうし、一概には言い切れないのだが……。


「ロバートがロンドンに来ているの?」

「きみの妹と一緒にここを訪れるつもりだって。アレンに逢いに」


 室温が三度は下がったかな、と思えるような眼前の彼のまとう冷ややかな空気に、飛鳥は思わず苦笑する。


「変わらないね、きみは」


 学生の頃とは違い、今では飛鳥もヘンリーの抱える家族の確執に安易に踏み込むことはしない。あまりにも浮いた噂一つない彼が、女嫌いなどと蔭口を叩かれるのも、母親への葛藤が起因していることも察しがついている。

 アレンとの関係をここまで修復できただけでも奇跡なのだ。母親に気性も、容貌もそっくりだといわれている妹のことなどは、自分の口だししていい範疇(はんちゅう)であろうはずがない。


 飛鳥の一言をどう受け取ったのか、ヘンリーは薄らと笑みを湛えて肩をすくめた。


「僕のいない間、他人をこの家には入れないようにマーカスに言っておくよ。たとえそれがアレンの客であってもね。きみも、ヨシノの兄であると同時にアーカシャーの人間だってこと、忘れないで。ロバートは、リックに次ぐガン・エデン社の大株主でもあるのだからね」


 ヘンリーの柔らかな声音には、さきほど垣間見た冷ややかさはもう微塵も含まれていない。

 飛鳥は神妙に頷いて、ティーカップに残っていたお茶を飲み干すと立ち上がった。



「ヘンリー、新年の本店ディスプレイなんだけどね、デイヴの試作品に少し色を加えてみたんだ。見てくれる?」

「もちろんだよ」


 ガラリと口調を変えて微笑みかける飛鳥に、ヘンリーもまた、にこやかな笑みを返して頷いていた。



 





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