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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
672/805

 宴の後は虚しさがつきまとう。それがどんなに満ち足りたものであったとしても。


 翌朝ヘンリーが起きてきたときには、客の引き払った後の居間は早々にもとの状態に戻されていた。唯一、TS映像のツリーだけを残して。

 ひと気のない空っぽの空間を一瞥し、ヘンリーはティールームに向かった。自分一人の朝食なら、ダイニングよりもティールームの方がまだ侘しさが和らぐというもの。


「おはよう、マーカス」

「おはようございます」

「昨夜はご苦労様。メアリーはもう出発したの?」

「はい。まだ昏いうちに。ご挨拶も申しあげず申し訳ございません、と」

「かまわないよ。せっかくのクリスマスだもの。忙しなくて申し訳なかったね」


 そう、今日はクリスマスなのだ。皆、家族のもとへ帰る日だ。


「今年のクリスマスは――、賑やかだね。やはりヨシノがいるだけで違うね。それに、ウィルとゆっくり話せるのも久しぶりだろ?」

「ええ。息子からアラブ式の紅茶を教わりました」


 にこにこと応え紅茶を注ぐマーカスに、ヘンリーもまた微笑んで相槌を打つ。

「それで、ウィルは?」

「コンサバトリーです」


 怪訝な視線を向けたヘンリーに、マーカスは困ったように唇をすぼめ、「皆さん、徹夜で過ごされておられるので」と付け加える。


「そう。誰が残っているの?」


 昨夜の客はすべて見送ったはずだ。その後でコンサバトリーを使うとなると……。


「サラお嬢さまとアスカさん、ヨシノさんです。ウィリアムが控えております」

「意外な組み合わせだな」

 ヘンリーは眉根を寄せると、カチャリとカトラリーを置いて立ちあがった。

「様子を見てくる。ごちそうさま。片づけてかまわないよ」


 ほとんど手のつけられていない皿を一瞥し、マーカスはわずかに咎めるように主人を見つめた。


「……解った。戻ってくるから、このままに」

「かしこまりました」


 にこやかに微笑む執事の腕を、ヘンリーは苦笑しながらぽんと叩いて通り過ぎる。


 

 静まり返った隣室の閉め切られたドアを開ける。

 コンサバトリー内に踏みこむことを躊躇い、その場に足を留めた。静かに佇んでいるヘンリーに、壁際に立っていたウィリアムが気づいて歩み寄る。口を開きかけた彼を制して、ヘンリーは唇の前で人差し指を立てた。


 ガラス天井の向こうに広がる灰色の空。正面に広がる緑の芝生。いつもの風景に安堵する。そう感じるのは、このコンサバトリー空間が、所狭しと書きこまれた数式で埋めつくされているからだろうか。


 ヘンリーは長ソファーに横たわって眠っているサラを見て顔をしかめ、その向かいのソファーに腰かけたまま微睡んでいる飛鳥の横に腰を下ろす。残る吉野はクッションに顔を埋めて、フロアカーペットの中央に直に寝転んで眠っていた。



「おはよう。コーヒーがいるかな?」

 敏感に目を開けた吉野に、ヘンリーも目敏く気づき声をかけた。

「ああ、ありがとう。ついでに食べる。腹減ってんだ」

 ウィリアムに声をかけるまでもなく、彼は頷いて部屋をでた。


「これは何の数式?」

「教授のだした宿題だよ。それより、このペン面白いな。デヴィのアイデア? 子どもに返った気分で楽しかったよ」

「それを考えたのは、アレンだよ」

「へぇー!」

 意外そうに吉野は声をあげ、半身を起こした。


「あの糞真面目にこんな遊び心があるとは思わなかったよ」と、言いつつ、そうでもないか――、と吉野は首を捻る。昨夜のパーティーテーブルにしろ、インテリアにしろ、アレンのアイデアは子ども受けしそうなものばかりだ。


「商品化には、ほど遠い代物だけどね。この中だからこれだけクリアに描きだせるけれど、実際のところ――、サラ、」


 吉野に応えながら、ヘンリーは身動ぎしない彼女を声を高めてもう一度呼んだ。

「サラ!」

びくりと跳ね起きて自分を見た妹に、厳しい視線を向けている。

「きみはもう部屋に戻って」

 サラは視線を伏せたままヘンリーの傍らに歩み寄って、囁くような小声で呟いた。

「ごめんなさい」

 ヘンリーは微笑んで応え、サラの頬にキスをあげた。

「おやすみ。できるなら晩餐までには起きて。クリスマスだからね」

 サラはちらりと上目遣いで彼を見て、キスを返す。

「そんな遅くまで寝たりしないわ」




「厳しいんだな」

 サラが部屋を出たとたんヘンリーの口から盛大に漏れたため息に、吉野は苦笑を交えて呟いていた。

「普通だろ。まだ結婚前だ」

「いまどきないだろ!」

「環境が特殊だからさ」



 いわれてみれば、彼女は男所帯の紅一点だ。メアリーがいなければ、昨晩のように、生活面など簡単に崩れてしまうのかもしれない。


 初めはハワード教授と吉野の二人で、暗号セキュリティの話をしていたのだ。そこへ飛鳥とサラが加わった。それから純粋数学の話になり、夜も更けてパーティーを終えた後も、またここに戻ってきて、結局、夜明け近くまで遊んでしまっていたのだ。


「世間知らず同士で先が思いやられるな」


 吉野はヘンリーに同意を求めるように苦笑を向けた。だが、眠りこけている飛鳥をぼんやりと眺めているヘンリーの憂いを秘めた表情に、その笑みを消した。


 ふっと、ヘンリーが振り返る。


「そのためにマーカスがいる。彼をこの二人につけるからね。結婚式までに自立しなくてはならないのは僕の方だよ。マクレガーが使える奴ならいいけれど」

 どこか投げ遣りなふうに笑い、「アスカも起こした方がいいのかな? この姿勢じゃつらいだろうに」と、吉野に問う。

「飛鳥は平気だよ。起こすより寝かせといてやって」

「そう――」

 ヘンリーは笑っているとも思えない様子で口角をあげる。


「ああ、そういえば朝食を置いたままなんだ。きみは? ここで食べる?」

「そっちに行くよ。昨夜、面白い話を小耳に挟んだんだ」


 立ちあがり、大きく伸びをする吉野を眺め、ヘンリーはくしゃっと顔を歪めて肩を震わせて笑った。黒いディナージャケットを脱いだ吉野の白いシャツの上にも、顔の上にも、数字が絡みつくように映り込んでいるのだ。数字の中に吉野がいる。


「この部屋のドアを開けたとき、これこそがきみたちの言語で、世界そのものなのだと思ったよ。僕には踏み込むことも、触れることすらできない場所だって」

「ある意味そうだな。俺だって似たようなものだよ。飛鳥のようにはいかない」

「きみでも?」

「サラくらいだろうな。完璧に飛鳥の見ているものが見えるのは。俺は想像するだけだよ。でも、それでいいと思っている。あんたみたいに、諦めたりはしない」

「――諦めているわけじゃない」

「そうか?」


 ついと視線を逸らして皮肉気に唇の端を歪めたヘンリーを目の端で捉えながら、吉野は静かにドアを開けた。


「ほら、早くしろよ、俺、腹減ってんだ」


 





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