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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
671/805

  宴8

「見ごとなものだなぁ」

 壁際に設けられたソファーにハワード教授と膝を並べている杜月氏は、正面にそびえる巨大なクリスマスツリーを見上げ、感嘆をこめて呟いていた。

「どこにも歪みが見えない」

「歪み? 歪みと言われるのは何ですか?」

 流暢な日本語で返ってきた疑問に、杜月氏はにこやかな笑顔でもって応える。

「このツリーは立体映像なんですよ。どの方向から見ても、角度を変えても本物と見紛うばかりでしょう? こんな普通の室内で、照明の影響も受けずにここまでの完成度を見せてくれるなんて、」

「飛鳥が誇らしくて堪らないだろ?」


 差しだされた料理ののった皿を、杜月氏は目を細めて受けとる。


「ああ、そうだな」

「本人にそう言ってやれよ。喜ぶからさ」


 ハワード教授にも同じようにメインのローストターキーの皿を渡し、吉野はその傍らに腰かける。


「それにあのお嬢さんか」

「そうだよ、あの二人が二人三脚で開発してきたんだ。それをヘンリーが事業として成功させた。この婚姻はひとつの区切りなんだ。今まで、一緒にいるのが当たり前になりすぎていたからな」

「飛鳥が選んだ子だってすぐに納得できたよ。まるで父と話しているようだった。そう思われませんでしたか、教授」

 苦笑気味に向けられた笑みに、ハワード教授も喉をくつくつと震わせて笑い、頷く。

「まったくだ。確かに彼女はコウゾー氏を彷彿とさせる」


 もう何年も前になる。ヘンリーの数学の共同論文でサラの存在を知ってから、ハワードはやっと本人に逢うことができたのだ。吉野や飛鳥に勝るとも劣らない数学的センスに、もっと早くこうして知りあう事ができていたらと思う反面、保護者としてのヘンリーが、彼女の早熟な才能を好奇の目に晒すことのないように、と守り続けてきた気持ちも解らないではなかった。特に今、こんな形でもう一人の豊かな才能を手許で育てる身になってからは――。


 傍らの吉野を、そしてもう一方にいる杜月氏を交互に見比べ、ハワードは過ぎ去った日々と、積年の悔恨を噛みしめずにはいられない。もう少し、もう少し早く自分を頼ってくれていれば――。せめて生きている内に、と。今はこの世にはいない昔日の親友の面影を宿す杜月氏と飛鳥、そして突拍子もない性格をそのまま受け継いだような吉野。彼らはすでに独り身の彼にとって、杜月倖造に代わり守り通さねばならない家族に等しい。


 その大切な家族の間に軋みが生じていることを、ハワードは飛鳥から聴いて知っていた。忙しく立ち働いている吉野と父親の間にせめてもの時間を持てるようにと、さりげなく立ちあがる。そして「どれどれ、では立体映像のツリーを間近で検証してきますよ」と、親子二人その場に残して席を外した。


「もう飛鳥の友だち連中と話したか? 俺のダチも?」

「ああ。皆、立派な青年たちだな」

「アルをこっちに戻すんだってな。そっちは困らないのか?」

「アーカシャーから出向してくる社員は、優秀な人材が揃っているからね。おかげで引き継ぎもスムーズに進んでいるよ」


 婚約話が決まってからまだひと月も経たないというのに。

 その行動の早さに舌を巻きながら、吉野はツリーの下で教授に身振り手振りを加えて技術的な説明をしている、ヘンリーとサラに眼をやる。


「庶子とはいえ、まさか英国貴族のご令嬢と親戚になるなんてな」

 ぼんやりと呟かれたその言葉に、杜月氏も笑って頷く。

「お前はどうなんだ?」

「俺? 俺はそんな暇ないよ。まだ学生だもの」

「飛鳥が心配してたぞ。まだ学生なのに、そんな噂ばかりが絶えないって」

「言わせとけよ。噂なんて事実からは一番遠い所にあるもんだろ?」


 久しぶりに交わす息子との軽口に、杜月氏は肩の力が抜けたようにふっと深く息を漏らす。


「これからは、あんな可愛いお嬢さんが飛鳥の傍にいてくれるんだな。肩の荷が下りたよ。お前もそうだろう?」

「そうだな」

「もう兄離れできるな?」

「大丈夫だよ」


 吉野は屈託なく笑って見せた。そのための婚約だ。そう見せるための。


「これから飛鳥はサラと二人でアーカシャーを、それに『杜月』を今まで以上に盛り立てていくんだ。俺は俺の道を行くよ」

「教授の下でかい?」

「そうだよ。もうじきまた数学の論文を発表するんだ。最年少で教授になってみせるよ。それがハワード教授の夢だよ。教授はな、祖父ちゃんに渡せなかった勲章を俺に授けたいんだ」


 どこか遠い目をして微笑む息子を、杜月氏は緩く微笑みを浮かべて眺め、頷いた。


「父さんも、あの世で喜んでくれているだろうなぁ。――で、飛鳥は?」


 思い出に埋没してしまいそうになる自分を振り切るように、杜月氏は室内を見渡した。今日の主役だというのに息子の姿がないようなのだ。


「外だよ。ロニーと話している」


 煌々と照らされた室内を鏡のように映しだしているガラス戸の向こうに、ガーデンテーブルで顔を突き合わせている二人の姿がかすかに見てとれた。


「呼んでこようか?」

「いや、かまわん。それよりも、ほら、」


 先ほどからチラチラとこちらを見遣りながら、親子の会話が途切れるのを待っている様子の吉野の友人一団に、杜月氏は柔らかな視線を向け、「もう行きなさい」と傍らの息子を促した。


 もう充分だ、と。

 飛鳥にも、吉野にも、こんなにも彼らを思ってくれる友人たちがいるのなら――。二人とも、過去と同じ轍を踏むことはないだろう、と。

 杜月氏は輝かしい光に照らされたフロアを眺めながら、微笑んで嘆息していた。


 




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