宴6
「アスカ、おめでとう!」
遅れてやって来たロレンツォが、大袈裟に腕を広げて飛鳥を抱擁する。飛鳥はくすぐったそうに笑い、軽いハグを返す。
「婚約者は?」
「今、外しているんだ。すぐに戻るよ」
「まさかお前に先を越されるとは思わなかった!」
「きみは選ばないだけだろ? 聞いてるよ、いろいろと」
嫌味にならないように飛鳥は軽く笑い、声をひそめて冗談めかす。
「聞くって何を? どこから? おい、引きこもりがどこからそんな情報を仕入れてくるんだ?」
ロレンツォは半分真顔で、半分冗談交じりで飛鳥の面を覗き込み、肩を組む。飛鳥は曖昧に微笑んでテーブルからシャンパングラスを取ると、ガラス戸を開けテラスへとロレンツォを誘った。
夜風が火照った頬に心地良い。
アルコールを飲んだわけではないのに、賑やかな雰囲気に酔ったのか。ロレンツォの言うように、大学を卒業してからめっきり大勢の人と接する事が減ったせいで、久々に人に酔っているのか。飛鳥は、どこかふわふわと覚束ない気分で、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「イギリスの、この喉に刺さるような冬の空気が好きなんだ」
ロレンツォはそんな飛鳥を目を細めて見つめ、渡されたシャンパングラスを飛鳥のそれと軽く打ち合わせて、くいと煽る。
「俺はいまだに慣れないな。きっと生涯好きにはなれないだろうな。故郷の太陽が恋しいよ」
「英国に来たのはいくつの時? ウエスタン入学から?」
「その二年前。準備コースからだから11歳だな」
ガラス越しの煌びやかな室内に目をやり、ロレンツォは懐かしげに表情を緩める。
「あいつに逢わなければ、さっさとフェレンツェに帰っていたかもしれない」
飛鳥もその視線の先を追い、納得したように頷く。
「今でもなの?」
「そうそう変わらないさ」
「ロニーは幸せ?」
「ああ」
間髪入れずに返された肯定に、飛鳥は苦笑する。
「初恋だったから?」
「言うなよ、それを。あいつに聴かれたら、間違いなく俺だけこの屋敷から叩き出される」
肩をすくめて顔をしかめるロレンツォを、飛鳥は満面の笑みで笑い飛ばした。
「あの頃はすごかったもんねぇ。ヘンリーのあの渋面ったらなかったもの! それを思うと、きみが今ここにいる事の方が奇跡だよ! こうして、僕の横に座ってくれていることも……」
「おい、おい、」
じんわりと滲む飛鳥の目許に、ロレンツォは驚いてガーデンチェアから腰を浮かせ、テーブルの上の彼の腕を掴んだ。
「ああ、酔っ払っているのかな」
指先で瞼を擦りながら、飛鳥は、はっと息をつく。
「日本では友だちなんて一人もいなかった。そんな暇なかったし、僕の周りは危険で、とても誰かと一緒に行動するなんて無理だったんだ。ロニー、きみが僕に初めてできた友人なんだ」
「ヘンリーは違うのか?」
「あの頃はね。僕の方がいろいろ問題を抱えていたから……。今思うと、本当に幼稚な、つまらないこだわりにすぎなかったんだけどね」
フェイラーだから……。貴族だから。特権階級の彼とは身分が違う。そんな色眼鏡で見ていたのは僕の方で。
「でも、そうだね。今でもまだ、彼を前にすると、どこか構えてしまうのかも知れないな。緊張するんだ。常に120%満足させなきゃいけない、って思ってしまうんだ。だから、上手く言いたい事も言えない。きみとならもっと自然に話せるのに」
「解るよ。俺もそういうところがある。おっかないからなぁ、あいつは!」
ロレンツォの大きなため息にあまりにも実感がこもっていて、飛鳥は吹きだしてしまった。くすくす笑いながら「ごめん」と彼を見ると、ロレンツォ自身、にこにこ笑っている。
自分自身を笑い飛ばせるこのおおらかさが、自分の様なつまらない人間も受け入れてくれる彼の度量なのだと改めて認識し、「ありがとう」と呟いた。
そして軽く咳払いをして居住まいを正し、テーブルに置いたままのシャンパンで唇を湿らせる。酔ってしまわない程度に。わずかな勢いをもらえる程度に。
「ロニー、この婚約に際して僕は吉野にこう言われたんだ。これからもヘンリーと歩み続ける気なら、覚悟を決めろって。おかしいと思わない? 僕はサラと一生を歩んで行くために婚約するのに」
「それは、あの妹が深く会社の経営に関わっているからだろ? おまえやあいつの妹の立場からすれば、結婚は個人の問題じゃ済まない。まずは家同士の、それに会社同士の婚因でもあるさ」
「それならそうとはっきりと言えばいいんだ。なんだか違うんだよ」
上手く説明できないもどかしさに、飛鳥は目を伏せて唇を噛む。ロレンツォはそんな飛鳥をじっと見守り、続く言葉を待っている。
「なんだか、政略結婚みたいだろ?」
「まさか! そんな必要がどこにある?」
呆れたように両手を広げるロレンツォに、飛鳥は苦笑するほかはない。
「そうだね。確かに」
政略結婚の駒としては、確かに自分では役不足だ。これが吉野であったなら、また違ったかもしれないけれど。
「馬鹿なことを考えるなよ。自分を卑下しすぎるところが、おまえの悪い癖だぞ! あの妹にまともに付き合えるのはおまえくらいしかいない、って誰もが思ってるってのに。お似合いだよ、おまえら二人は!」
はたしてそうなのだろうか、と飛鳥は首を傾げて曖昧な笑みを浮かべた。
お似合いというのなら――。
居間に戻っているサラが、傍らのヘンリーに笑顔を向けている。にこやかに屈託なく。その様子をぼんやりと眺めていた飛鳥は、つまりはそういう事だ、と唐突に合点がいく。
彼女がヘンリーに向ける信頼や愛情。その半分も、自分はサラに愛されているとは思えない。自覚が持てないのだ。そして自分は――。
「ロニー、隠さずに教えてくれる? 吉野は、あの砂漠でいったい何をしているの? きみに何を頼んだの?」
そして自分は、吉野の思惑を理解し胸を塞ぐ不安を払拭しない限り、眼前の幸福に浸ることすらできないでいる。
真摯に向けられた飛鳥の唐突な質問に、ロレンツォは顔色も変えずに、目を眇めた。




