宴2
おおよその打ち合わせを終え、吉野は飛鳥を庭の散歩に誘った。居間からテラスに出て階段をあがっていく。夜ともなると外気は一段と冷えこんでいて、思いのほか寒い。
「飛鳥、風邪ひくなよ」
横を歩く飛鳥は、思った通り首を縮こまらせて背中を丸めている。
「早足で歩いていると温かいよ」
飛鳥は白い息を吐きながら笑みを零す。
「綺麗だろ。今年もゴードンさんが飾りつけてくれたんだ」
薔薇園を通りすぎたころに現れたコニファーの木立には、小さな電球が星のように瞬いている。
「これを見るとクリスマスなんだな、って気になるよ」
吉野も白く濁る息を楽しむかのように笑っている。
「吉野、」
「うん?」
「……僕はね、」
「うん」
どうも言いだす決心がつかない様子の飛鳥を尻目に、吉野は地上の星々の瞬く樹々の切れ目から広がる空を仰ぎ、足を止めた。
「やっぱり、電球よりも天然だな。飛鳥、温室よっていくか?」
「うん」
飛鳥もまた空を仰ぎみて息を継ぎ、立ち止まっていた道を外れ、空き地の奥へと足を進める。
ぽっと仄かに光るしっとりとした苔室に、膝を並べて腰をおろした。
「そういえば、おまえとここに来たことなかったね」
「そうだったかな」
「アレンとはよくここでお茶を飲むんだ」
「そうか」
「ヘンリーとサラは来ないな」
「あいつら湿度を嫌がるもんな」
「僕は、僕よりもおまえの方がサラと気が合うんじゃないかと、思っていたんだ」
ぼんやりと視線を漂わせていた吉野は、じっと前方を見つめる飛鳥の横顔に眼をやった。
「なんだ、そんな事を気にしていたのか」
「気にするだろ、普通」
「あいつとは金勘定の話しかしないのに?」
くっくっ、と喉の奥で含み笑う弟を、飛鳥は膨れっ面で振り返る。
「金勘定って、おまえ……」
「あいつ、飛鳥以上に数字が好きだからな。まぁ、そのおかげでアーカシャーは湯水のように研究開発費を使うことができるんだから、いいんだけどさ。あいつの金融取引のやり口を知ったらさ、飛鳥、百年の恋も一瞬で覚めるぞ。もう、すっげぇ怖いからさ」
「吉野!」
「別に悪口じゃないぞ。知っておけよ。これから結婚しようって相手なんだからさ」
しかめっ面をして口をへの字に曲げた飛鳥の背中を、吉野はバンッと叩く。
「飛鳥は相変わらずだな。祖父ちゃん譲りだ」
「融通が利かない?」
「そうだな」
震える吐息が、飛鳥の口から漏れる。
「お前は誰に似たんだ?」
「ジム・テイラー。実質俺を育てたのは木村のおっちゃんとジムだ。だから飛鳥が気に病むことはない。飛鳥の責任じゃない」
「僕が、お前をほったらかしにしていたからだろ?」
「違うよ」
静まり返ったガラス張りの室内なのに、自分の声は大地に沈み、染みいるようだな、と吉野は膝に肘をつき、若干俯き加減に視線を地面に落としていた。その姿勢のまま、くぐもった声で話し続ける。
「飛鳥が工場を手伝って生活を支えてくれていたように、俺も一刻でも早く大人になりたかったんだよ。飛鳥のように、家の支えになりたかったんだ」
吉野は飛鳥の面から目を逸らしたままだったが、兄の膝の上でぐっと拳が握られるのを視界の端で捉えていた。
「飛鳥、ヘンリーと歩み続けるなら、覚悟を決めろよ。もう町工場の技師には戻れないんだ。サラはガキの頃から国際市場で闘い続けているんだ。そういう女だよ、あれは。見た目通りのガキじゃないんだ」
「おまえはもう戻れないんだね、昔には……」
絞りだされた声に、吉野は面をあげ、にっと笑って白い歯を見せた。
「変わらないよ、俺は。飛鳥の弟だ。父さんと母さんの子どもだよ。それに恥じるようなまねだけは、絶対にしない」
「恥……」
「そう教えてくれたのは、祖父ちゃんと飛鳥だろ? 信じろよ、俺を」
この無邪気な笑顔で判らなくなる。吉野が他人を傷つけるわけがないと信じたくなる。自分の直感よりも、洞察よりも、たどりついたどんな根拠よりも、目の前の吉野を信じたくなる。騙されていると判っていても、信じたくなるのだ。
「殿下は……」
「飛鳥の婚約披露に呼んだ。内輪だしな。不安があるなら本人に訊けばいい。決して俺があいつを操っているわけじゃないって納得できるよ」
薄らと刷いた笑みを絶やさぬまま、自分から視線を逸らさない吉野の顔を真っすぐに見つめ返した。その頬に残る傷痕が、自分が作った映像の砂漠の赤い月のようだと思った。その傷に手を伸ばして、包みこむように触れた。
「もう危険なまねはするなよ。寿命が縮まる。僕はサラのためにも長生きしたいんだからさ」
「六つも年上だもんな」
くすぐったげに笑い、吉野は頭を振る。
「俺、忙しいんだ。ハワード教授がぶつくさ言っててさ、カレッジの晩餐だろ、研究室にも顔出さなきゃだし、アレンのデザインしたインテリアってのも見たいしさ、それから……」
「アレンの部屋のサンプルならコンサバトリーで見られるよ。これから見る?」
勢いよく飛鳥は立ちあがる。
「いつまでもおまえを独占して、アレンを落ちこませるところだった!」
「そんなことで落ちこむかよ!」
「解ってないね、おまえは!」
ほら、と温室のガラス戸を開ける。とたんに浴びる冷気に、飛鳥は「寒!」と首をすくめる。
「お茶でも飲みながら見ようか。アレンはまだ起きてるかな?」
「まだ宵の口だろ? こっちは日が暮れるのが早過ぎて感覚が狂うよなぁ」
吉野もぶるりと震え肩をすくめて夜空を仰ぐ。
「その分夜が長い。アレンに電話するよ」
凍てついた大地を踏みしめて、二人はまた整備された歩道に足を戻した。ぽっぽっとガーデンライトが一足ごとに夜道を照らす。
この灯に導かれるまま進めば、やがてコンサバトリーに行きつく。きっとアレンが温かいお茶を用意して待っていてくれるだろう。今までずっとそうしてきたように。
応答するアレンに、軽い口調で呼びかけている兄の背中をぼんやりと見やりながら、吉野は変わらない自分と、変わりゆく兄の間に、なぜか果てしなく広がる距離を感じていた。




