表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
665/805

  宴2

 おおよその打ち合わせを終え、吉野は飛鳥を庭の散歩に誘った。居間からテラスに出て階段をあがっていく。夜ともなると外気は一段と冷えこんでいて、思いのほか寒い。

「飛鳥、風邪ひくなよ」

 横を歩く飛鳥は、思った通り首を縮こまらせて背中を丸めている。

「早足で歩いていると温かいよ」

 飛鳥は白い息を吐きながら笑みを零す。


「綺麗だろ。今年もゴードンさんが飾りつけてくれたんだ」

 薔薇園を通りすぎたころに現れたコニファーの木立には、小さな電球が星のように瞬いている。

「これを見るとクリスマスなんだな、って気になるよ」

 吉野も白く濁る息を楽しむかのように笑っている。



「吉野、」

「うん?」

「……僕はね、」

「うん」


 どうも言いだす決心がつかない様子の飛鳥を尻目に、吉野は地上の星々の瞬く樹々の切れ目から広がる空を仰ぎ、足を止めた。


「やっぱり、電球よりも天然だな。飛鳥、温室よっていくか?」

「うん」


 飛鳥もまた空を仰ぎみて息を継ぎ、立ち止まっていた道を外れ、空き地の奥へと足を進める。




 ぽっと仄かに光るしっとりとした苔室(こけむろ)に、膝を並べて腰をおろした。

「そういえば、おまえとここに来たことなかったね」

「そうだったかな」

「アレンとはよくここでお茶を飲むんだ」

「そうか」

「ヘンリーとサラは来ないな」

「あいつら湿度を嫌がるもんな」

「僕は、僕よりもおまえの方がサラと気が合うんじゃないかと、思っていたんだ」


 ぼんやりと視線を漂わせていた吉野は、じっと前方を見つめる飛鳥の横顔に眼をやった。


「なんだ、そんな事を気にしていたのか」

「気にするだろ、普通」

「あいつとは金勘定の話しかしないのに?」


 くっくっ、と喉の奥で含み笑う弟を、飛鳥は膨れっ面で振り返る。


「金勘定って、おまえ……」

「あいつ、飛鳥以上に数字が好きだからな。まぁ、そのおかげでアーカシャーは湯水のように研究開発費を使うことができるんだから、いいんだけどさ。あいつの金融取引のやり口を知ったらさ、飛鳥、百年の恋も一瞬で覚めるぞ。もう、すっげぇ怖いからさ」

「吉野!」

「別に悪口じゃないぞ。知っておけよ。これから結婚しようって相手なんだからさ」


 しかめっ面をして口をへの字に曲げた飛鳥の背中を、吉野はバンッと叩く。


「飛鳥は相変わらずだな。祖父ちゃん譲りだ」

「融通が利かない?」

「そうだな」


 震える吐息が、飛鳥の口から漏れる。


「お前は誰に似たんだ?」

「ジム・テイラー。実質俺を育てたのは木村のおっちゃんとジムだ。だから飛鳥が気に病むことはない。飛鳥の責任じゃない」

「僕が、お前をほったらかしにしていたからだろ?」

「違うよ」


 静まり返ったガラス張りの室内なのに、自分の声は大地に沈み、染みいるようだな、と吉野は膝に肘をつき、若干俯き加減に視線を地面に落としていた。その姿勢のまま、くぐもった声で話し続ける。


「飛鳥が工場を手伝って生活を支えてくれていたように、俺も一刻でも早く大人になりたかったんだよ。飛鳥のように、家の支えになりたかったんだ」


 吉野は飛鳥の面から目を逸らしたままだったが、兄の膝の上でぐっと拳が握られるのを視界の端で捉えていた。


「飛鳥、ヘンリーと歩み続けるなら、覚悟を決めろよ。もう町工場の技師には戻れないんだ。サラはガキの頃から国際市場で闘い続けているんだ。そういう女だよ、あれは。見た目通りのガキじゃないんだ」

「おまえはもう戻れないんだね、昔には……」


 絞りだされた声に、吉野は面をあげ、にっと笑って白い歯を見せた。


「変わらないよ、俺は。飛鳥の弟だ。父さんと母さんの子どもだよ。それに恥じるようなまねだけは、絶対にしない」

「恥……」

「そう教えてくれたのは、祖父ちゃんと飛鳥だろ? 信じろよ、俺を」


 この無邪気な笑顔で判らなくなる。吉野が他人(ひと)を傷つけるわけがないと信じたくなる。自分の直感よりも、洞察よりも、たどりついたどんな根拠よりも、目の前の吉野を信じたくなる。騙されていると判っていても、信じたくなるのだ。


「殿下は……」

「飛鳥の婚約披露に呼んだ。内輪だしな。不安があるなら本人に訊けばいい。決して俺があいつを操っているわけじゃないって納得できるよ」


 薄らと刷いた笑みを絶やさぬまま、自分から視線を逸らさない吉野の顔を真っすぐに見つめ返した。その頬に残る傷痕が、自分が作った映像の砂漠の赤い月のようだと思った。その傷に手を伸ばして、包みこむように触れた。


「もう危険なまねはするなよ。寿命が縮まる。僕はサラのためにも長生きしたいんだからさ」

「六つも年上だもんな」


 くすぐったげに笑い、吉野は頭を振る。


「俺、忙しいんだ。ハワード教授がぶつくさ言っててさ、カレッジの晩餐(ばんさん)だろ、研究室にも顔出さなきゃだし、アレンのデザインしたインテリアってのも見たいしさ、それから……」

「アレンの部屋のサンプルならコンサバトリーで見られるよ。これから見る?」


 勢いよく飛鳥は立ちあがる。


「いつまでもおまえを独占して、アレンを落ちこませるところだった!」

「そんなことで落ちこむかよ!」

「解ってないね、おまえは!」


 ほら、と温室のガラス戸を開ける。とたんに浴びる冷気に、飛鳥は「寒!」と首をすくめる。


「お茶でも飲みながら見ようか。アレンはまだ起きてるかな?」

「まだ宵の口だろ? こっちは日が暮れるのが早過ぎて感覚が狂うよなぁ」


 吉野もぶるりと震え肩をすくめて夜空を仰ぐ。


「その分夜が長い。アレンに電話するよ」


 凍てついた大地を踏みしめて、二人はまた整備された歩道に足を戻した。ぽっぽっとガーデンライトが一足ごとに夜道を照らす。


 この灯に導かれるまま進めば、やがてコンサバトリーに行きつく。きっとアレンが温かいお茶を用意して待っていてくれるだろう。今までずっとそうしてきたように。


 応答するアレンに、軽い口調で呼びかけている兄の背中をぼんやりと見やりながら、吉野は変わらない自分と、変わりゆく兄の間に、なぜか果てしなく広がる距離を感じていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ