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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
663/805

  血筋8

「誰かと思ったよ。お帰り、ヨシノ」


 仕事を終え帰宅してみると当然のように寛いでいた吉野に、ヘンリーは苦笑がちに声をかけた。


「ただいま。久しぶりに帰るとやっぱり落ち着くな」

「それは良かった。きみが変わらず、ここを我が家のように思ってくれていて安心したよ」


 飛鳥のいる場所がきみの帰る場所だと、解ってはいるけれど。彼が結婚するとなると、これまで通りとはいかないだろうから。


 なぜ彼自らそれを望んだのかと、今更ながら訝しく思いながら、ヘンリーは彼の向かいのソファーに腰を下ろした。


「婚約までこんなに早く話が進むとは思わなかったよ。ありがとうな」

「一緒に住んできたわけだからね。今更交際期間も必要ないだろ?」

「そういうもんかな? それでこれからどうすんの? 結婚した後もさ、あんたやデヴィたちと同居を続けるってのも変じゃないか?」

「サラはマーシュコートに住みたいと言っているんだ。僕もそれに賛成だよ。仕事面を考慮すると、アスカは辛いかもしれないけどね」


 ヘンリーやサラはいいのだが、飛鳥はヘリコプターが苦手だ。だからあそこに住むとなると、少々不便だといわざるを得ない。普段はともかく、ケンブリッジやロンドンでの仕事が入れば、飛鳥だけが車か鉄道を使わなければならなくなる。陸路での移動は、時間と身体的な負担がかかりすぎることが難点だ。


「まぁ、確かに」と、吉野は頷きながらもほっとしたように笑っている。

「あの二人を結婚させても、あんたまでくっついて行くんじゃないかと思ってたんだ」

「そこまで悪趣味じゃないよ」

 苦笑うヘンリーに、吉野は唇を突きだして大袈裟に肩をすくめてみせる。

「だって、あんたサラなしじゃ何もできないだろ?」

「心外だな。きみがそんなふうに思っていたとはね」


 むしろ何もできなくなるのは彼女の方なのに。


 サラが止まってしまわないように――。常に好奇心を刺激し、興味をかき立て、閉じられた空間の中でしか生きられない彼女の世界が澱んでしまわないように、ヘンリーは気を配ってきたのだ。


 洞察力に長けた吉野であってもそんな見方をするのかと、彼は意外そうに小首を傾ける。


「まぁ、あんたが大丈夫ならそれでいいんだ」

 どこか投げ遣りにも見える吉野を訝しく思いながら、ヘンリーは穏やかな微笑みを返す。

「大丈夫かどうか心配なのは、きみの方だけどね」

「俺は心の底から満足しているよ。やっと肩の荷が下りたよ」

「アスカはきみのお荷物だったのかい?」


 そうではないと解っていながら、ヘンリーは皮肉を込めて薄すらと笑う。


「そうじゃない。解ってるくせにな! 飛鳥はさ、ずっと祖父ちゃんの幻影に囚われていたからな。サラだけなんだ。祖父ちゃんが唯一その才能を認めた他人はさ。ジムでさえ、鼻にも引っ掻けなかったっていうのにな」


 何十年もに渡って、生き馬の目を抜く金融界のトップをひた走り続けるヘッジファンド、リグレッション・テクノロジーズCEOジェームズ・テーラー……。


 その名前に、ヘンリーの表情が引き締まる。


「そう言ってもらえるのは嬉しいけどね。まるできみたちのお祖父さまは、サラを知っていたかのような口ぶりだね。どういうことなの?」

「知ってたんだよ。『シューニヤ』をね。サラはな、祖父ちゃんのお眼鏡に適った飛鳥の憧れの人だったんだ」


 にっと顔をほころばせた吉野に、ヘンリーも「ああ、」と呟いて納得したようだ。


「あの頃からずっと好きだったんだ。祖父ちゃんが死んでからは、唯一飛鳥を支配してやまない女神さまだよ。あんた、どれほど自分が運のいい人間かこれで解っただろ? サラがあんたの許にいるから、飛鳥はあんたを信じてるんだ」

「……僕の価値なんてそれだけのもの。きみは、そう言いたいの?」

「意外に自分を信じてないんだな。全然そうは見えないのに!」


 呆れたように言い、吉野はくすくすと笑いだす。


「出逢う前から恋焦がれていた相手の兄貴がさ、こうも都合良く自分と同じ夢を追っているなんて、奇跡だろ?」

「必然だよ。サラにその夢を植えつけたのはアスカだったのだから。インターネットで出逢った頃は、お互いに朧な蜃気楼だった。だが、今向かいあっているのはそんな影じゃない。互いの実態だろ? 僕たちはもう本物のオアシスを見出して、甘露を汲みだす作業を始めているんじゃないのかい?」

「世界を潤わすためにか?」

「そうだね。より美しい世界を作りだすために」

「だから飛鳥を手放すことはできない。そういうことだな?」

「彼が留まることを望むのであればね」


「相変わらず嘘つきだな、あんた!」

「きみほどではないよ」


 互いに目と目を交わしあい、にっと微笑みあう。


「ありがとう、ヘンリー。次は俺が約束を守る番だな」

「善処してくれることを願っているよ」


 そう答えながら、ふと、ヘンリーは虚ろに視線を漂わせた。


 当たり前に口にした願う、という言葉。いったい何に? と自分自身に自問する。


 神を信じない自分が、いったい何に対して願うというのか? 眼前の吉野に? 彼以上に信じられない人間はいない。


 自分以外の者に望みを託すなど愚かしい。それでも、自分一人ではどうにもならないのだ。目隠しをしたまま踏みだす足許を恐れながら、より良い明日を願わずにはいられない。そんな不確かな者でしかないのだ。自分という人間は――。


 そして恐らく、彼も。


 自分と大して変わりはしない曖昧模糊とした世界に生きているのだろうと、今まであまり感じたことはなかった親近感を、その強い言葉とは裏腹にどこか輪郭の定まらない眼前の吉野に、抱いたのだった。






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